2008年11月12日水曜日

人生観を変える旅へ

1985年12月8日。ワールドカップ予選の余韻が残る国立競技場にイタリアの名門ユベントスがトヨタカップでのクラブ世界一の座をかけてやってきた。エースは言うまでも無くフランス人プレイヤーの“将軍”ミッシェル・プラティニ。対するは南米チャンピオンのアルヘンチノス・ジュニアーズ。
オレはペン取材でピッチに入ったが、試合開始になってもゴール裏に陣取る北川外志広カメラマンの後ろに座りカメラ目線で試合を追っていた(今ではカメラはゼッケンを強制されるので不可能だろうが)。世界一流のプレイヤーたちの息遣いが聞こえるピッチサイドでの“観戦”はものすごい迫力だった。目の前で幻となったプラティニの伝説のボレーシュートを目の当たりにしてフットボールの神の存在を初めて身近に意識した。
来年はワールドカップの本大会が行われる。そこにはこのプラティニをはじめ神の領域に達する天才たちの饗宴が織り成されるのだ。

「ワールドカップとF1は死ぬまでに一度見ておけ、人生観が変わる」
誰が言ったのか覚えていないが、若い頃一度聴いて頭に刻み込まれた言葉だ。
それは人生観が変わるほどの甘美な体験なのか?

夢を見させてくれ!

世界の頂点に立ち歓喜のビクトリーランを追いながら、オレは目の前のユベントスの選手たちと共有するこの時間がいつまでも続くことを願っていた。

翌1986年の春。オレはついに日本代表が指先から砂がこぼれるように出場権を逃したワールドカップメキシコ大会を、日本のフットボーラーがいまだかつて誰もピッチに立ったことが無いその現場を、観に行こうと決意した。
小学生の頃1966年のワールドカップイングランド大会の記録映画『GOAL』を観にいって以来、いつかはこの目で世界最高峰の戦いの場を目撃したいと思い続けてはいたが、今と違って海外旅行のハードルはガキにとってはあまりにも高い壁だった。30歳を超え、海外旅行も何度か経験し、やっとどこか別世界の話が現実味を帯びてきた。当時、観戦ツアーを催行していたJTBに問い合わせ、着々とこの夢の実現に向け計画を立て始めたのである。
問題はただでさえ忙しい週刊誌の仕事の合間を縫って最低で2週間以上の休暇を取れるかどうか?日程と仕事のやりくりを乱数表のように何度も練った。それでも先にツアーの日程を決めてしまえば後で何とかなるだろう。えいやっと、好試合が多いとされる準々決勝周辺を選んで申込書を送ったのである。
しかし事はそう簡単には進まなかった。大会も目前に迫り気分も高揚しだした頃に、社長列席の業務会議の予定が舞い込み、なんと旅行日程のど真ん中に設定されてしまった。これは編集幹部にとっては年に何回かの重要な会議であるのだが、ある程度通常の開催パターンを読んではいたものの社長のスケジュールのブッキングまでは予測できず、結果最悪の巡り会わせとなってしまった。まさか社長のスケジュールを変えてくれとも言えず、オレは泣く泣くJTBにキャンセルの連絡を入れ、キャンセル料も派生してしまう羽目になってしまった。なんという不運。やはり夢は夢でしかないのか?

このメキシコ大会は後にマラドーナの大会として記憶されることになる。ジーコ、カレッカ、ソクラテス、セレーゾのブラジル。プラティニ、ジレス、ティガナのフランス。スペインのブトラゲーニョ、デンマークのエルケーア、ベルギーのシーフォ、メキシコのウーゴ・サンチェス、ウルグアイのフランチェスコリ。いつの大会に増して歴史に残るスターたちが灼熱のピッチ上で激闘を繰り広げた。
6月21日、グアダラハラ・ハリスコスタジアムの準々決勝第1戦、ブラジル対フランス。
カレッカのゴールで先制したブラジルに、プラティニの同点弾で振り出しに戻すフランス。試合は手に汗握る戦いとなった。高地のそして容赦なく照りつける陽光で選手たちの疲労度は限界に達する。ジーコがエリア内でGKバツに倒されてPKを得る。信じられないことに神様ジーコはこの千載一遇のチャンスをバツによって止められてしまったのだ!天を仰ぐジーコ。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

試合は90分で決着がつかず延長戦へ突入した。消耗戦で明らかに足が止まってしまったソクラテスがどフリーのシュートを空振ってしまう。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

どちらのチームも譲らず力を出し切ったものの勝敗はPK戦に委ねられる。PK戦のしょっぱなで疲労の極に達していたソクラテスがゴールを外してしまう。その後ブラジルはアレマン、ジーコ、ブランコが、フランスはストピラ、ベローヌが決める。続くプラティニはボールにキスをしてプレースし勝利を確信した。が、なんということか今度はこの将軍と謳われたスーパースターがバーの上へ蹴り上げてしまったのである!

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

勝利の行方は二転三転する。しかしこの危機をフランスGKバツが救った。ブラジルのジュリオ・セザールを見事に止め、最後にフランスのルイス・フェルナンデスが王者ブラジルの息の根を止めた。歓喜のフェルナンデスにプラティニが抱きつく。崩れ落ちるブラジルイレブン。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

このグアダラハラの激闘は、歴代のワールドカップのベストバウトとして世界のフットボール愛好者に永遠に記憶される試合となった。
オレはテレビの前で死ぬほど後悔した。社長会議が何だったんだ!仕事が忙しい?そんなことでこの歴史の目撃者となる特権を棒に振ったのか?
人生観が変わる! 一度しかない人生でそれほどの陶酔の時間が他にあるとでも言うのか?
この日以来、どんなことがあってもワールドカップの現場にいるということに対して、たとえ仕事を失ったとしたってためらってはいけないと悟った。それは金や地位なんかに変えようが無い自分の生きる行為そのものではないのか、次のイタリア大会ではすべてを投げ出す覚悟を決めたのである。

1987年、NHKの衛星放送が始まり、オレは32歳にして衛星放送専門誌『テレビコスモス』の編集長となった。衛星放送は地上波の時間枠にとらわれない編成と高画質、高音質の新しいメディアとしてリアルタイムのニュースや映画・音楽などのエンタテインメントに威力を発揮した。なかでもスポーツ中継はキラーコンテンツとして大リーグ中継を軸に、もちろんサッカー中継も欧州選手権の予選などファンにはたまらない番組が並び、仕事にも力が入った。
88年のソウル五輪はハイビジョンの実用化も含め、衛星放送普及の絶好のチャンスとしてNHK-BS挙げての完全中継が実現した。オレは北川カメラマンと同行しソウルへ飛んだ。ベン・ジョンソンの栄光と挫折を目撃した興奮も冷めやらぬある日、ブッキングをお願いした旅行代理店のデスクに客が集まらない不人気競技のチケットの束が放り投げられていた、自由に持っていってよいといわれたその中にサッカー競技も含まれているのに驚いた。確かに日本代表は出場権をほぼ掌中にした予選最終戦で中国に惨敗しその姿を見ることは出来なかった。そんな大会にツアーで訪れる日本人なんかやはり皆無だった。

オレは北川カメラマンを誘って東大門スタジアムのサッカー競技を観にいくことにした。カードはオーストラリア対ナイジェリア。23歳以下の名も知らぬ選手たちがそれでもピッチの上で真剣勝負の戦いを繰り広げていた。ワールドカップのレベルとは程遠かったが、異国のスタジアムで観るフットボールに魅了された。
思えば、この試合がオレにとっての海外でのフットボール観戦の記念すべき最初の試合となったのである。



<以下続く>

2 件のコメント:

ask さんのコメント...

そうか、あの頃は秋山さんも海外サッカー見始めだったのですね…Wユース、W杯イタリアetc。「人生変えられた男」を目撃していたのですね。人生サボってた小生が見たのはごく断片的に、でしょうが…(爆)。

秋山光次 さんのコメント...

askさんも結構オールドファンだったんですね。BS始まるまではワールドカップ以外で海外サッカー観る機会は少なかったですからね。BSで88年のユーロの予選「CIS対フィンランド」放送したとき、よくぞこんなマイナーな試合をと感動しました
一時、港ケーブルでセリエAを放送していたことがあって(当時は放送権なんかタダみたいなものだったんでしょうね)、本気で港区に引っ越そうと思ったりしました。