2009年5月17日日曜日

ノヴァンタの夏、ローマにて


1990年6月30日。オレはローマのスタディオ・オリンピコの7万2000人の真っ只中にいた。
スタジアムを埋め尽くす緑・白・赤の三色旗。
「イタリャ!イタリャ!」
怒涛のようにうなりをあげて響く地元イタリアのサポーターたちのコール。
隔離された一角に陣取る対するアイルランドのサポーターたちも負けじと太鼓をたたき鬨の声を上げる。
大観衆のボルテージは試合開始時間が近づくにつれ一段と高まってくる。

まぎれもなく夢にまで見たワールドカップの会場に自分が立っていることを改めて確認した。
「とうとうきちゃいましたね」
ツアーで一緒の小柄な青年が誰とはなしに震えた声で言った。彼もまたこれが夢なら覚めないでほしいと願っているのだろう。
フットボールを愛せし者ならば誰もが夢見る場所だ、オレにしたって夢を見させてくれ!と、生まれてこの方叫び続けてきたその瞬間がついに実現したのだ。

選手が入場し両国の国歌が奏でられる。イタリア国歌の大合唱に目頭が熱くなってくる。足が震えだした。
ふとわれに返ったとき、試合のホイッスルはすでに鳴っていた。アズーリの11人がピッチに散る。白と緑のアイリッシュたちがそれを追って展開する。躍動する肉体、スピード感あふれるボール回し、世界最高峰のフットボールが目の前で展開している。
ベスト8まで絞られた準々決勝。イタリアはここまで全国民の後押しを受け危なげなく勝ち進んできた。実はこのチーム、エースのジャンルカ・ビアリの不調もあり大会前は得点力不足を指弾され優勝はかなり不安視されていた。そのホストカントリーの危機を救ったのが彗星のごとく現れたサルバトーレ・トト・スキラッチというシチリア出身の遅咲きのストライカーだった。開幕戦の対オーストリアで途中出場から値千金の決勝弾を叩き込み、一夜にしてイタリアのアイドルへ上り詰めたのである。眼光鋭い強面からかいま見せるいたずらっ子のような笑顔、ゴムマリのようなバネをもつ強靭な肉体、ユベントスの売り出し中の救世主にイタリア中が夢中になった。
そして、この日もこの強運の男がイタリアに勝利をささげるゴールが炸裂し、イタリアはベスト4に駒を進めたのであった。
オレは確かにそこにいた。

興奮冷めやらぬ翌7月1日、バスでナポリへ移動。スタディオ・サンパオロで準々決勝のイングランドとカメルーンの延長戦にもつれ込んだ壮絶な試合を堪能した。ガリー・リネカー、デビッド・プラット、ポール・ガスコイン、スター選手が並ぶフットボールの母国に、大ベテランのロジェ・ミラを中心に驚異的な身体能力とテクニックで挑んだカメルーンの健闘。3-2と点の取り合いを制し歓喜の輪ができるイングランドイレブンを祝福するカメルーンの選手たちの全力を出し切った後の満足げな表情が胸を打った。
オレは確かにそこにいたのだ。

7月3日、準決勝。優勝まであと二つと迫ったイタリアはナポリのスタディオ・サンパオロでディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンと相対した。ナポリ市民は地元のクラブのアイドルであるマラドーナが相手チームで登場するために複雑な心境のようだった。中世以来の各都市国家で発展してきたイタリアではいまだに地元意識が高く往々にして代表チームよりも地元クラブへの思い入れが強いのだ。マラドーナはナポリの英雄でもあり、ナポリっ子たちもわが代表よりマラドーナを応援したくなるのもやむを得なかった。
試合は救世主スキラッチが、ファンタジックなプレーでこれまた今大会のイタリアチームのもう一人の“顔”になっていたロベルト・バッジョの強烈なシュートのこぼれだまをなんなく決める。ラッキーボーイの面目躍如。イタリアは先制したことでフランコ・バレージ、ジュゼッペ・ベルゴミ、アルド・フェリ、パオロ・マルディー二の協力DF陣が「鍵」をかける。勝利の流れは一気にイタリアへと傾いたかに思えた。しかし後半半ば、この「鍵」をこじ開けたのはやはりマラドーナだった。中央からドリブルで起点となり左サイドに振り、左サイドからするすると駆け上がったクラウディオ・カニーヒアの頭にあわせ、カニーヒアはバックヘッドで無失点時間記録を続けていたGKヴァルター・ゼンガの頭上を破った。試合はその後一進一退、延長でも決着がつかずPK戦にもつれ込んだ。決着がついたとき地面に崩れ落ちたのはイタリアだった。
スタジアムのイタリア人たちはみな泣いていた。カルチョにはあまり興味がないと言っていたわれわれの現地ガイドの女性もぽろぽろと大粒の涙を流していた。ナポリは愛するマラドーナによって自分たちの「国」屠られてしまったことに沈黙した。ナポリがはじめてマラドーナへの祝福を拒否したのである。後日マラドーナはこのときナポリの愛を失ったことに深く傷いたことを告白し、これをピークに彼のキャリアは下降していくことになるのである。
オレは確かにそこにいた。

7月7日 南部イタリアの港町バーリ、スタディオ・サンニコラ。今大会イタリアに夢を見せ続けてきたアズーリが3位の座を駆けてイングランドを迎え撃った。通常消化試合になる3位決定戦は見るべきものがないといわれるが、大会を盛り上げた両チームともプライドをかけた戦いで思わぬ好ゲームが展開した。バッジョ、スキラッチのパス交換からバッジョが見事に先制すると、イングランドはすかさずプラットが見事なヘッドで追いつく。1-1のままタイムアップを迎える間際、スキラッチの突破にイングランドDFの足がかかりPKが与えられる。チームの全員が笑顔でスキラッチをキッカーに促し、彼は大会得点王となる自身6点目を落ち着いて決めた。すばらしい敗者同士の戦いだった。
そして確かにオレはそこにいた。


大会の合間、オレはフィレンツェ、アッシジ、べネツィアにも足を伸ばした。カルチョの祭典は強烈な夏の日差しとともに人生の至福の時間を感じさせてくれた。スペイン広場でジェラート屋を探し、フォロロマーノの遺跡にたたずんで帝国の栄光を偲び、ウフィッツィではルネッサンスの美術を目の当たりにし、バチカンのピエタ像に心打たれた。
人々はバールでカルチョを語りながらワインの杯を重ね、とあるトラットリアではテラス席に座った爺さんが遠来の東洋人たるオレを相手に、延々と1966年東洋の国(北朝鮮)に破れた悔しい思い出を語った。
すべてが楽しく、心が浮き立つような時間があっという間に過ぎていった。

そして7月8日。ファイナル。西ドイツ対アルゼンチン。再びローマのスタディオ・オリンピコの歴史を目撃できる特権を得た7万2000人の大観衆のひとりとなるのだ。
一つ一つのプレーに対するどよめき。さざめきのようにスタンドから沸き起こる拍手。打ち振られる旗、すばらしい時間にどっぷり酔いながらいつしかオレは幸福な夢を見ていた。
自分が生きている間に一度くらい、わが日本代表がこの舞台に立つ日が来ることを。
死ぬほど夢見たワールドカップ決勝戦の現場に立った今、オレは再び魂の渇望を覚えだした。

夢を見させてくれ!
夢を見させてくれ!
夢を見させてくれ!

1990年(ノヴァンタ)オレのイタリアの夏はいま最高潮を迎えていた。

<以下続く>

2009年1月24日土曜日

イタリア!夢の舞台へ

東京五輪後の日本サッカーの強化を目的に組織された日本サッカーリーグも四半世紀の年月を経たが、メキシコ五輪後の長い低迷でさすがにアマチュアリズムの限界は各方面で討議され始め、プロ契約を前提とした読売や日産に続いて各チームでライセンス・プロの選手たちがチームの中心になり始めた。1988年、またもやアジアの壁を越えられなかったソウル五輪予選の無残な敗退を受け、森健皃リーグ総務主事が「日本リーグ活性化委員会」を結成。ようやく日本のトップリーグのプロ化が実施レベルで検討されるようになった。
オレが中坊の頃『サッカーマガジン』にプロ化の提言を投書してから、すでに20年以上経っていた。いったい何をやっていたんだコイツラは。
やっと重い腰を上げ動き出した森総務主事のあとを継いだのは東京五輪でアルゼンチンを葬ったダイビングヘッドのヒーロー・川淵三郎だった。彼は具体的に1992年を目標としてプロリーグを結成する提案を「第2時活性化委員会」でぶち上げた。

夢を見させてくれ! 

おそらくは川淵にオレの叫びが届いたのだろう、彼も日本サッカーリーグで国立を満員にしようと旗を降り始めている。きっとそうに決まっている。
歴史は音を立てて動いていた。ソ連はペレストロイカの前で雪が解け始め、中国は民主化の嵐が吹き荒れている。日本サッカー協会も“ペレストライカー”のポスターまで作って旧いアマチュアリズムの呪縛を解きほどこうともがきだしたかのようだった
しかし機運は高まるものの現実はまだまだ厳しい。それを思い知らされたのが1990年開催のイタリアワールドカップのアジア予選だった。

ソウル五輪予選敗退後、代表は石井義信監督が辞任しメキシコ五輪のGK横山謙三がそのあとを継いだ。ユニフォームも白、青から赤に変えてムードは一新された。横山は思いつきでドイツ流のウイングバックを導入し佐々木正尚、浅岡朝泰、平川弘といった選手たちがスピードを買われて起用されていたものの付け焼刃的な慣れないシステムに悪戦苦闘した。
1989年5月香港とのアウェー戦は、天安門事件直前、李鵬首相の戒厳令布告に対する抗議で騒然とした中で行われた。そんな雰囲気に呑まれたのか試合は見るべきところなく0-0で引き分けてしまう。1週間後、ジャカルタでの対インドネシア・アウェー戦でもゴールを割れずに0-0。
さらに翌月の国立での強豪・北朝鮮との試合でもいきなり先制されてしまい早くも予選突破に黄信号がともり暗雲が立ち込めだした。ところが圧倒的に責められながらもカウンターから水沼貴史が同点ゴールを奪うと、なんと信じられないことに相手のオウンゴールが飛び出しラッキーにも勝利が転がり込んできた。

翌週、続いてインドネシアをホームに迎えたが、どういう理由だったかわからないが会場は国立ではなく西が丘が使用されることになっていた。いまでは高校サッカーくらいしかビッグゲームが行われることがない西が丘である。当時その時期のサッカー場は西が丘に限らず雨でぬかるんでピッチの芝生は剥げ落ち泥だらけの状態だった。前日の練習に訪れたインドネシアの選手たちは絶句しここは競馬場じゃないのか?と目を疑った。10万収容の見事な芝生のセナヤンスタジアムでプレーする彼らにはアジアで最も発展している東京で、こんなお粗末な競技場で重要なワールドカップ予選のゲームをさせられるとは夢にも思っていなかったのだろう。このホームの利点(?)に乗じた日本は、足をとられて調子を出せない相手から大量5点を奪って勝利した。インドネシアの監督は試合後の会見で“そもそもこんなスタジアムでワールドカップの予選をやる資格があるのか!”と怒りは収まらなかった。格下と目される国からの精一杯の皮肉に対して日本は何もいえなかった。お粗末なインフラ、まだまだ人気のないマイナースポーツ。これが日本サッカーの現実の姿なのだ。

ただこの勝利でサポーター(こんな言葉はまだなかったが)は沸き立った。次の神戸で行われる香港に勝てば1次予選突破は見えてくる。
夢を見させてくれ!
ところが肝心の香港戦は期待を裏切りまたもやスコアレスドロー。北朝鮮との最終戦で勝利が絶対条件になってしまった。そしてこの難敵にあっさり0-2で完敗し、あえなくイタリアへの道は1次予選で閉ざされてしまったのである。

泥だらけでの西が丘での試合開催。テレビ中継すらないアウェイ戦。1次予選すら突破できない代表。こんなことで1992年を具体的な目標にしたとはいえプロ化なんて出来るのだろうか?前途の多難さを考えるとため息しか出てこない。


日本の将来を慮りながらも、世界のフットボールはあまりにも輝かしく、ワールドカップはビッグビジネスとなり巨大化する一方だった。
日本のサッカーには冷淡なメディアであったが1990年のイタリアワールドカップについては、ソウル五輪に続きNHKの衛星放送普及の切り札として全試合の完全生中継が行われることとなった。
オレは衛星放送情報誌『テレビコスモス』の編集長として、ワールドカップの特集号と銘打って誌面を1冊丸ごとサッカー一色に作り上げた。いつになく徹夜仕事もいとわずに働いたのは、当然、本大会の行われるイタリアへ休暇をとって観戦に行くつもりだったからである。
メキシコワールドカップを直前でキャンセルした後悔は二度とするまいぞ。とにかくどんなことがあってもワールドカップの現場に立つんだ!歴史の目撃者になるんだ!しかも世界最高峰のリーグを誇り世界最高の舞台イタリアでの開催である。

夢を見させてくれ!

オレはJTBのワールドカップのツアーパンフレットから準々決勝から決勝までの6月28日から7月10日まで、11泊13日のコースを選び、当時まだまだ高かった旅行代金に大枚をはたいた。
2週間の有給休暇もただでさえ忙しい出版社のサラリーマン的にはなかなか申請しにくいものがあったが、直属の上司にまなじりを決して休暇届を提出した、止めるものなら止めてみろという意気込みだったが上司は拍子抜けするほどあっさり判を押してくれ“取材してくれば半分出張扱いにしてもいいよ”とまで言ってくれたのであった。

映画『GOAL!』で1965年のイングランド大会を初めて知ってから25年、ついに念願のワールドカップの決勝戦を目撃するのだ。JTBから旅行の日程表が届き、オレはようやく夢が現実となる実感を噛みしめていた。

<以下続く>

2008年11月12日水曜日

人生観を変える旅へ

1985年12月8日。ワールドカップ予選の余韻が残る国立競技場にイタリアの名門ユベントスがトヨタカップでのクラブ世界一の座をかけてやってきた。エースは言うまでも無くフランス人プレイヤーの“将軍”ミッシェル・プラティニ。対するは南米チャンピオンのアルヘンチノス・ジュニアーズ。
オレはペン取材でピッチに入ったが、試合開始になってもゴール裏に陣取る北川外志広カメラマンの後ろに座りカメラ目線で試合を追っていた(今ではカメラはゼッケンを強制されるので不可能だろうが)。世界一流のプレイヤーたちの息遣いが聞こえるピッチサイドでの“観戦”はものすごい迫力だった。目の前で幻となったプラティニの伝説のボレーシュートを目の当たりにしてフットボールの神の存在を初めて身近に意識した。
来年はワールドカップの本大会が行われる。そこにはこのプラティニをはじめ神の領域に達する天才たちの饗宴が織り成されるのだ。

「ワールドカップとF1は死ぬまでに一度見ておけ、人生観が変わる」
誰が言ったのか覚えていないが、若い頃一度聴いて頭に刻み込まれた言葉だ。
それは人生観が変わるほどの甘美な体験なのか?

夢を見させてくれ!

世界の頂点に立ち歓喜のビクトリーランを追いながら、オレは目の前のユベントスの選手たちと共有するこの時間がいつまでも続くことを願っていた。

翌1986年の春。オレはついに日本代表が指先から砂がこぼれるように出場権を逃したワールドカップメキシコ大会を、日本のフットボーラーがいまだかつて誰もピッチに立ったことが無いその現場を、観に行こうと決意した。
小学生の頃1966年のワールドカップイングランド大会の記録映画『GOAL』を観にいって以来、いつかはこの目で世界最高峰の戦いの場を目撃したいと思い続けてはいたが、今と違って海外旅行のハードルはガキにとってはあまりにも高い壁だった。30歳を超え、海外旅行も何度か経験し、やっとどこか別世界の話が現実味を帯びてきた。当時、観戦ツアーを催行していたJTBに問い合わせ、着々とこの夢の実現に向け計画を立て始めたのである。
問題はただでさえ忙しい週刊誌の仕事の合間を縫って最低で2週間以上の休暇を取れるかどうか?日程と仕事のやりくりを乱数表のように何度も練った。それでも先にツアーの日程を決めてしまえば後で何とかなるだろう。えいやっと、好試合が多いとされる準々決勝周辺を選んで申込書を送ったのである。
しかし事はそう簡単には進まなかった。大会も目前に迫り気分も高揚しだした頃に、社長列席の業務会議の予定が舞い込み、なんと旅行日程のど真ん中に設定されてしまった。これは編集幹部にとっては年に何回かの重要な会議であるのだが、ある程度通常の開催パターンを読んではいたものの社長のスケジュールのブッキングまでは予測できず、結果最悪の巡り会わせとなってしまった。まさか社長のスケジュールを変えてくれとも言えず、オレは泣く泣くJTBにキャンセルの連絡を入れ、キャンセル料も派生してしまう羽目になってしまった。なんという不運。やはり夢は夢でしかないのか?

このメキシコ大会は後にマラドーナの大会として記憶されることになる。ジーコ、カレッカ、ソクラテス、セレーゾのブラジル。プラティニ、ジレス、ティガナのフランス。スペインのブトラゲーニョ、デンマークのエルケーア、ベルギーのシーフォ、メキシコのウーゴ・サンチェス、ウルグアイのフランチェスコリ。いつの大会に増して歴史に残るスターたちが灼熱のピッチ上で激闘を繰り広げた。
6月21日、グアダラハラ・ハリスコスタジアムの準々決勝第1戦、ブラジル対フランス。
カレッカのゴールで先制したブラジルに、プラティニの同点弾で振り出しに戻すフランス。試合は手に汗握る戦いとなった。高地のそして容赦なく照りつける陽光で選手たちの疲労度は限界に達する。ジーコがエリア内でGKバツに倒されてPKを得る。信じられないことに神様ジーコはこの千載一遇のチャンスをバツによって止められてしまったのだ!天を仰ぐジーコ。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

試合は90分で決着がつかず延長戦へ突入した。消耗戦で明らかに足が止まってしまったソクラテスがどフリーのシュートを空振ってしまう。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

どちらのチームも譲らず力を出し切ったものの勝敗はPK戦に委ねられる。PK戦のしょっぱなで疲労の極に達していたソクラテスがゴールを外してしまう。その後ブラジルはアレマン、ジーコ、ブランコが、フランスはストピラ、ベローヌが決める。続くプラティニはボールにキスをしてプレースし勝利を確信した。が、なんということか今度はこの将軍と謳われたスーパースターがバーの上へ蹴り上げてしまったのである!

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

勝利の行方は二転三転する。しかしこの危機をフランスGKバツが救った。ブラジルのジュリオ・セザールを見事に止め、最後にフランスのルイス・フェルナンデスが王者ブラジルの息の根を止めた。歓喜のフェルナンデスにプラティニが抱きつく。崩れ落ちるブラジルイレブン。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

このグアダラハラの激闘は、歴代のワールドカップのベストバウトとして世界のフットボール愛好者に永遠に記憶される試合となった。
オレはテレビの前で死ぬほど後悔した。社長会議が何だったんだ!仕事が忙しい?そんなことでこの歴史の目撃者となる特権を棒に振ったのか?
人生観が変わる! 一度しかない人生でそれほどの陶酔の時間が他にあるとでも言うのか?
この日以来、どんなことがあってもワールドカップの現場にいるということに対して、たとえ仕事を失ったとしたってためらってはいけないと悟った。それは金や地位なんかに変えようが無い自分の生きる行為そのものではないのか、次のイタリア大会ではすべてを投げ出す覚悟を決めたのである。

1987年、NHKの衛星放送が始まり、オレは32歳にして衛星放送専門誌『テレビコスモス』の編集長となった。衛星放送は地上波の時間枠にとらわれない編成と高画質、高音質の新しいメディアとしてリアルタイムのニュースや映画・音楽などのエンタテインメントに威力を発揮した。なかでもスポーツ中継はキラーコンテンツとして大リーグ中継を軸に、もちろんサッカー中継も欧州選手権の予選などファンにはたまらない番組が並び、仕事にも力が入った。
88年のソウル五輪はハイビジョンの実用化も含め、衛星放送普及の絶好のチャンスとしてNHK-BS挙げての完全中継が実現した。オレは北川カメラマンと同行しソウルへ飛んだ。ベン・ジョンソンの栄光と挫折を目撃した興奮も冷めやらぬある日、ブッキングをお願いした旅行代理店のデスクに客が集まらない不人気競技のチケットの束が放り投げられていた、自由に持っていってよいといわれたその中にサッカー競技も含まれているのに驚いた。確かに日本代表は出場権をほぼ掌中にした予選最終戦で中国に惨敗しその姿を見ることは出来なかった。そんな大会にツアーで訪れる日本人なんかやはり皆無だった。

オレは北川カメラマンを誘って東大門スタジアムのサッカー競技を観にいくことにした。カードはオーストラリア対ナイジェリア。23歳以下の名も知らぬ選手たちがそれでもピッチの上で真剣勝負の戦いを繰り広げていた。ワールドカップのレベルとは程遠かったが、異国のスタジアムで観るフットボールに魅了された。
思えば、この試合がオレにとっての海外でのフットボール観戦の記念すべき最初の試合となったのである。



<以下続く>