2008年8月27日水曜日

拓かれた道

70年代後半のスポーツといえば、大学ラグビーの人気が頂点に達し始めていた頃である。
早明戦、早慶戦といったビッグカードには5万人以上の観衆を集め、学生のスター選手が脚光を浴びた。
確かにラグビーの試合での悲壮なまでのひたむきさは観るものをひきつけた。かく言うオレも兄がラガーになっていたので(サッカーの楽しさを教えてくれてもいたが)、実は秩父宮には人気が出る前から良く通ったものである。1971年のオールジャパンがオールイングランドを3-6まで追い詰めた伝説の激戦を現場で目撃した一人でもある。

我が母校の青学も対抗戦グループで4強の座を伺う実力校だったので、ラグビー部の奴らはしゃくだったがよくもてた。野獣のような風体のむくつけき男たちが、そろいのブレザーを着てキャンパスを歩くかたわらには、いつもいい女がまとわり付いていた。
大学時代のガールフレンドもラグビー観戦はうれしそうに付き合ってくれたが、サッカーは“なんか、おかっぱ頭のちっちゃい人のジャージ姿のイメージがあってダサい”(誰のことやねん)“あの競技場のパフパフするホーンもカッコ悪いし”と散々な言われ方だった。
実際日本リーグの試合には閑古鳥が鳴き、指差して数えられるくらいのガラガラの観客席は悲惨だったが、78年のW杯アルゼンチン大会はNHKでライブ中継され、世界のサッカーの凄さは一般の人の間でも認識が広がってはいた。しかしそれと日本のサッカーはまったく別物だった。

就職活動が始まると、オレもそろそろ真剣に進路を考えなければならなくなった。サッカー選手にもなれず中途半端に学生運動を挫折し、高校の進路指導では将来の希望に「馬賊」と答え教師を呆れさせていたくらいなので、将来設計なんぞあるわけもなかった。あえていえばマスコミ志望。当時兄もすでに新聞社に就職していたこともあったがそれに影響されたわけではない。何か物を書く仕事にでもつければいいな、という軽い気持ちだった。中学の頃、「サッカーマガジン」に投稿して掲載されたことの記憶がどこかにあったのかもしれない。
当時は就職難の時代だったので大新聞社はじめマスコミ業界は超難関だった。二流の私大じゃ歯のたちようも無い。就職部の求人票に、新聞のテレビ番組表配信の会社の募集があったので受けてみるとなぜか最終面接まで残ってしまった。社長と思しき面接官から“君は配信志望らしいが、わが社の「TVガイド」には興味は無いのか?”と聞かれた。オレは「TVガイド」の存在自体は知っていたが生憎手に取ったこともなかったので“あのお正月に出ている雑誌ですか?”と聞き直すと“「TVガイド」は毎週出ている!”と社長には思いっきりむっとされてしまった。が、逆に他の面接官にはウケ、それが功を奏したのだろう翌日内定の連絡が来た。世の中判らないものだ。

オレはこの会社、東京ニュース通信社の「週刊TVガイド」広告部に配属された。仕事は広告原稿の印刷会社への送稿がメインだったが見よう見まねで記事広告コピーを書いたりしていたら、出張校正室でY編集長から広告原稿にもかかわらず思いっきり朱を入れられた。“君が書いたのか?”と問われ、“すみません”と謝ったが、次の異動で編集部に呼ばれた。新入社員の原稿にしては少しは読めたということなのだろう、ちぇ謝らなければよかった。多少回り道はしたが、「サッカーマガジン」の投稿から10年近くたってまがりなりにも“書く”ことが職業となったというわけだ。

1979年にはワールドユース世界大会が日本で開催された。FIFAの初めての主催試合の開催国となった日本は実力はともかく、世界規模の大会で高い運営能力をサッカーの先進国に印象付け、その後のビッグイベントの道を拓いた。この大会はアルゼンチンのディエゴ・マラドーナが衝撃の世界デビューを果たした大会でもあった。
新しい時代が到来しつつあったのだ。
1980年は日本サッカー界でちょっとした動きがあった。若返り策を図っていた代表チームに、プロ化をにらみブラジル選手を多く所属させ日本リーグでも異端の存在だった読売クラブからも選手が加わった。彼らの多くは学校サッカーを経験せずにユース年代からクラブで育成されたエリートで、なかでも戸塚哲也は天才の名を思うままにしていた。小学生の頃に“僕が一人抜けば人数的に優位になれる”と言い放った小憎らしい男である。この戸塚らが加わリ、金田、加藤久、木村、都並、風間といったテクニックにも戦術にも長けた新世代の代表チームは80年12月のスペインW杯アジア・オセアニア予選で中国、北朝鮮に惜敗したものの、華麗なドリブルとパス回しで会場となった香港のファンを魅了した。日本代表も何かが変わりつつあった。今思えば時代の息吹というやつだったのかもしれない。
夢を見させてくれ!
苦杯をなめ続けてきた韓国や中国、北朝鮮に勝つ日はそう遠くはないことを。

そして翌年には第1回のトヨタカップが国立競技場で行われ、イングランドのノッティンガム・フォレストとウルグアイのナシオナル・モンテビデオがクラブ世界一の座を賭け激突した。ピーター・シルトン、トレバー・フランシス、ワルデマール・ビクトリーノといったスーパースターたちが目の色を変えて真剣勝負する文字通り世界最高峰の試合を目の当たりにし、オレは眠っていたサッカーへの情熱が再び湧き上がるのを感じた。

なんとなくフットボールの熱気が周囲に立ち上りはじめていた。
会社の若手の中にも同じ思いの隠れサッカーファンが何人かいた。彼らも同じ夢を見ていたのかもしれない。
同じようにボールを蹴りたい衝動に駆られていたのかもしれない。声をかけるとサッカーチームの結成の話がとんとん拍子に進み、こうして草サッカーチーム「DJS」が誕生した。チーム名は別にはじめていた草野球チーム“ドジーズ”(いうまでも無くLAドジャースからとった)のジュニアスペシャルというアイドルグループに由来するいい加減な命名だった。しかしメンバーには高校での経験者が思ったより多く、なかには大学の体育会OBもいたのも心強かった。後にエッセイストになった泉麻人も仲間の一人だった(口ほども無かったが)。上智大のグラウンドで広告代理店のチームと対戦したときは「サッカーダイジェスト」誌の取材もされた。パブリシティを仕込んだりするのはお手の物だ。試合の後のビールパーティーも楽しみだった。
あの遠い子供のときの思い出が、初めて空き地でボールを蹴った感覚が、またもや脳裏を掠めた。

そんなある日、人を介して助っ人で来てもらった服部匡伸君という青年のプレーにみな度肝を抜かれた。レベルが違った。聞けば数年前の高校選手権の都予選の決勝戦で大活躍した国学院久我山のストライカーだった。強力な助っ人を得たDJSは連勝し、服部君は後に1998年に惜しくも早世するまでサッカーだけではなく職場まで移籍させてしまうことになる。

後列右から5人目が泉麻人、後列右から2人目が服部選手
3人目が筆者

<以下続く>

2008年8月7日木曜日

美しく勝利せよ

70年代初頭は政治の季節だった。
進学した都立武蔵丘高校は、その春の卒業式でバリケード封鎖に機動隊の出動が要請され高校でははじめての逮捕者が出るという闘争があったばかりで、入学式にも校門前で反戦高協のメンバーがビラを配っていたり何やら事件の余韻のような騒然とした空気が漂っていた。
そんな高校に中学時代のライバルたち、石神井東のUT、石神井西のMR、豊玉のJO、天沼のIZらいずれも各中学のエース級の早々錚錚たるメンバーが入学していた。
何度も大会で当たってきた相手だけに顔を合わせるたびに“おう久しぶりだな。今度は一緒に頑張ろうぜ”などと声をかけられた。

70年6月14日、安保粉砕統一行動は7万人のデモ隊で都心を埋めつくした。その隊列の中にオレも加わっていた。日米安保条約の自動改定を粉砕せよ!日本の左翼は革命の夢を見ていた、それは伸ばせば手が届くところにあるのではないのか?
オレは街頭での反権力の闘いのダイナミズムに酔った。時代は急を告げているのだ、自然とグラウンドから足が遠のいていった。毎日鉄筆でガリ版のアジビラを書いた。政治活動とフットボールの両立は時間が許さなかった。
だが、フットボールの病はそんなに簡単には払拭できやしない。8月の日本代表のベンフィカ戦、オレはエウゼビオ(当時はオイセビオと呼んでいた)を見たくてデモをサボって国立へ駆けつけた。この試合で古河電工の若きストライカーが代表にデビューする。奥寺康彦、まだ19歳の新鋭だった。日本のサッカーはメキシコの銅メダル以来、新旧の世代交代が遅れ、徐々に輝きを失っていた。冬の時代が始まりかけていた。その中にあって奥寺の出現は残された一筋の光明だった。

権力はそんなに簡単に左翼の跳ね上がりを許さず、弾圧は熾烈を極めた。安保闘争を押さえ込まれ、三里塚の鉄塔が落ちる。沖縄返還闘争も不発に終わる。
八方がふさがれた暴力のベクトルは仲間に向けられ不毛な同士討ちが始まってしまった。三島が自決し、連合赤軍の銃撃戦以降虚無的なテロリズムの嵐が吹き荒れた。街頭で隊列を組んでいた同志たちは出口のない迷宮をさまよい、疲弊し、挫折し、次々と転向していった。
オレはといえば新宿のJAZZ喫茶や映画館に入り浸り、自分のオトシマエをつけられずに悶々としていた。

だが高校のサッカー部の仲間たちはグランドに姿を現さないオレを疎んだりしなかった。UTなどはよく夜中にバイクで部屋に遊びにきて、足がすっかり遠のいた部活の様子を話してくれた。彼らは順当に強くなり国学院久我山や帝京とも互角の勝負をするようになり、高校3年の選手権の予選では都のベスト32まで駒を進めた。彼らの活躍は嬉しかった。だがオレはプレイヤーとしての夢はもう描くことは出来なかったが、後悔はしていなかった。人生はフットボールだけではない、そのときはそう自分に言い聞かせていたのだ。

日本のサッカーは低迷を極めていた。アジアのローカル大会で惨敗し、遊びでやってくる南米や欧州のチームに子供のようにあしらわれてしまう。72年、メキシコW杯で神の域に達していたペレを擁するサントスFCが来日し、その神様の妙技に目を瞠った。日本は世界から確実に置いていかれてしまったのだ。アマチュアリズムで硬直化した発想でレベルが上るわけが無い。日本リーグは閑古鳥が鳴いていた。
夢を見させてくれ!とわめいたところで先は全く見えてこなかった。

一年の浪人生活でバイトばっかりしていたが、オレはなんとか青山学院大学に滑り込んだ。
心にぽっかりと空いた空洞はなかなか埋まらない。
誰か夢を見させてくれ!
そんなある日高等部出身の友人KBに誘われ高等部サッカー部OBチームの試合に参加し、久々にスパイクを履く機会があった。
身体はなまり、煙草で肺は毒されすぐ息が上がる。それでも子供の頃、兄と原っぱでボールを蹴ったあの日の楽しい記憶が戻ってきた。
選手生活はフェードアウトしたが、フットボールにはこういう楽しみ方もあるんだと認識した。
あらためてフットボールの病に身をゆだねるのも悪くない。

74年のワールドカップ西ドイツ大会、東京12チャンネルは決勝戦を中継する英断を下し、オレはテレビにかじりついた。日本のサッカーは最低だったが世界は確実に新しい時代に突入していた。それまでペレのブラジル、ベッケンバウアーの西ドイツの陰に隠れていたオランダが彗星のように表舞台に現れた。リヌス・ミケルスの指揮するトータルフットボールは天才ヨハン・クライフによって完成され、決勝戦では不屈の西ドイツの前に惜敗したものの、サッカー界に衝撃を与え、世界を魅了した。
“美しく勝利せよ”
なんと甘美なスローガンだろう。フットボールは勝利を目指すだけでなく美しくあらなければならないのだ。
自由奔放なオレンジの軍団の闘いはフットボールをひとつ上の極みに押し上げたのだ。

77年、神様だったペレが引退した。皇帝ベッケンバウアーとともに世界中で引退興行が行われ、東京でもサヨナラゲームが行われた。対戦する日本代表は二宮寛が前年から指揮を執って抜本的に若返りを図っていた。金田喜念19歳、加藤久20歳、西野朗21歳、前田秀樹23歳。この若い選手たちがフィールドから去っていく神様を相手に溌剌としたプレーで挑んだ。
まるでサッカーはこれで終わりではなく明日からも続くんだ、と言わんばかりの“若さ”は気持ちが良かった。かすかな希望を見たような気がした。
それはサッカーだけでなく、自分自身の再生への一歩だったのかもしれない。


<以下続く>