2008年11月12日水曜日

人生観を変える旅へ

1985年12月8日。ワールドカップ予選の余韻が残る国立競技場にイタリアの名門ユベントスがトヨタカップでのクラブ世界一の座をかけてやってきた。エースは言うまでも無くフランス人プレイヤーの“将軍”ミッシェル・プラティニ。対するは南米チャンピオンのアルヘンチノス・ジュニアーズ。
オレはペン取材でピッチに入ったが、試合開始になってもゴール裏に陣取る北川外志広カメラマンの後ろに座りカメラ目線で試合を追っていた(今ではカメラはゼッケンを強制されるので不可能だろうが)。世界一流のプレイヤーたちの息遣いが聞こえるピッチサイドでの“観戦”はものすごい迫力だった。目の前で幻となったプラティニの伝説のボレーシュートを目の当たりにしてフットボールの神の存在を初めて身近に意識した。
来年はワールドカップの本大会が行われる。そこにはこのプラティニをはじめ神の領域に達する天才たちの饗宴が織り成されるのだ。

「ワールドカップとF1は死ぬまでに一度見ておけ、人生観が変わる」
誰が言ったのか覚えていないが、若い頃一度聴いて頭に刻み込まれた言葉だ。
それは人生観が変わるほどの甘美な体験なのか?

夢を見させてくれ!

世界の頂点に立ち歓喜のビクトリーランを追いながら、オレは目の前のユベントスの選手たちと共有するこの時間がいつまでも続くことを願っていた。

翌1986年の春。オレはついに日本代表が指先から砂がこぼれるように出場権を逃したワールドカップメキシコ大会を、日本のフットボーラーがいまだかつて誰もピッチに立ったことが無いその現場を、観に行こうと決意した。
小学生の頃1966年のワールドカップイングランド大会の記録映画『GOAL』を観にいって以来、いつかはこの目で世界最高峰の戦いの場を目撃したいと思い続けてはいたが、今と違って海外旅行のハードルはガキにとってはあまりにも高い壁だった。30歳を超え、海外旅行も何度か経験し、やっとどこか別世界の話が現実味を帯びてきた。当時、観戦ツアーを催行していたJTBに問い合わせ、着々とこの夢の実現に向け計画を立て始めたのである。
問題はただでさえ忙しい週刊誌の仕事の合間を縫って最低で2週間以上の休暇を取れるかどうか?日程と仕事のやりくりを乱数表のように何度も練った。それでも先にツアーの日程を決めてしまえば後で何とかなるだろう。えいやっと、好試合が多いとされる準々決勝周辺を選んで申込書を送ったのである。
しかし事はそう簡単には進まなかった。大会も目前に迫り気分も高揚しだした頃に、社長列席の業務会議の予定が舞い込み、なんと旅行日程のど真ん中に設定されてしまった。これは編集幹部にとっては年に何回かの重要な会議であるのだが、ある程度通常の開催パターンを読んではいたものの社長のスケジュールのブッキングまでは予測できず、結果最悪の巡り会わせとなってしまった。まさか社長のスケジュールを変えてくれとも言えず、オレは泣く泣くJTBにキャンセルの連絡を入れ、キャンセル料も派生してしまう羽目になってしまった。なんという不運。やはり夢は夢でしかないのか?

このメキシコ大会は後にマラドーナの大会として記憶されることになる。ジーコ、カレッカ、ソクラテス、セレーゾのブラジル。プラティニ、ジレス、ティガナのフランス。スペインのブトラゲーニョ、デンマークのエルケーア、ベルギーのシーフォ、メキシコのウーゴ・サンチェス、ウルグアイのフランチェスコリ。いつの大会に増して歴史に残るスターたちが灼熱のピッチ上で激闘を繰り広げた。
6月21日、グアダラハラ・ハリスコスタジアムの準々決勝第1戦、ブラジル対フランス。
カレッカのゴールで先制したブラジルに、プラティニの同点弾で振り出しに戻すフランス。試合は手に汗握る戦いとなった。高地のそして容赦なく照りつける陽光で選手たちの疲労度は限界に達する。ジーコがエリア内でGKバツに倒されてPKを得る。信じられないことに神様ジーコはこの千載一遇のチャンスをバツによって止められてしまったのだ!天を仰ぐジーコ。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

試合は90分で決着がつかず延長戦へ突入した。消耗戦で明らかに足が止まってしまったソクラテスがどフリーのシュートを空振ってしまう。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

どちらのチームも譲らず力を出し切ったものの勝敗はPK戦に委ねられる。PK戦のしょっぱなで疲労の極に達していたソクラテスがゴールを外してしまう。その後ブラジルはアレマン、ジーコ、ブランコが、フランスはストピラ、ベローヌが決める。続くプラティニはボールにキスをしてプレースし勝利を確信した。が、なんということか今度はこの将軍と謳われたスーパースターがバーの上へ蹴り上げてしまったのである!

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

勝利の行方は二転三転する。しかしこの危機をフランスGKバツが救った。ブラジルのジュリオ・セザールを見事に止め、最後にフランスのルイス・フェルナンデスが王者ブラジルの息の根を止めた。歓喜のフェルナンデスにプラティニが抱きつく。崩れ落ちるブラジルイレブン。

オレはその場でこのシーンを目撃するはずだったのだ!

このグアダラハラの激闘は、歴代のワールドカップのベストバウトとして世界のフットボール愛好者に永遠に記憶される試合となった。
オレはテレビの前で死ぬほど後悔した。社長会議が何だったんだ!仕事が忙しい?そんなことでこの歴史の目撃者となる特権を棒に振ったのか?
人生観が変わる! 一度しかない人生でそれほどの陶酔の時間が他にあるとでも言うのか?
この日以来、どんなことがあってもワールドカップの現場にいるということに対して、たとえ仕事を失ったとしたってためらってはいけないと悟った。それは金や地位なんかに変えようが無い自分の生きる行為そのものではないのか、次のイタリア大会ではすべてを投げ出す覚悟を決めたのである。

1987年、NHKの衛星放送が始まり、オレは32歳にして衛星放送専門誌『テレビコスモス』の編集長となった。衛星放送は地上波の時間枠にとらわれない編成と高画質、高音質の新しいメディアとしてリアルタイムのニュースや映画・音楽などのエンタテインメントに威力を発揮した。なかでもスポーツ中継はキラーコンテンツとして大リーグ中継を軸に、もちろんサッカー中継も欧州選手権の予選などファンにはたまらない番組が並び、仕事にも力が入った。
88年のソウル五輪はハイビジョンの実用化も含め、衛星放送普及の絶好のチャンスとしてNHK-BS挙げての完全中継が実現した。オレは北川カメラマンと同行しソウルへ飛んだ。ベン・ジョンソンの栄光と挫折を目撃した興奮も冷めやらぬある日、ブッキングをお願いした旅行代理店のデスクに客が集まらない不人気競技のチケットの束が放り投げられていた、自由に持っていってよいといわれたその中にサッカー競技も含まれているのに驚いた。確かに日本代表は出場権をほぼ掌中にした予選最終戦で中国に惨敗しその姿を見ることは出来なかった。そんな大会にツアーで訪れる日本人なんかやはり皆無だった。

オレは北川カメラマンを誘って東大門スタジアムのサッカー競技を観にいくことにした。カードはオーストラリア対ナイジェリア。23歳以下の名も知らぬ選手たちがそれでもピッチの上で真剣勝負の戦いを繰り広げていた。ワールドカップのレベルとは程遠かったが、異国のスタジアムで観るフットボールに魅了された。
思えば、この試合がオレにとっての海外でのフットボール観戦の記念すべき最初の試合となったのである。



<以下続く>

2008年9月25日木曜日

世界への遠い架け橋

1982年、オレは会社を移ることになった。
当時、純文学主体の出版社だった角川書店が雑誌を含めた総合出版社への事業拡大を企画しており、雑誌での新たな可能性に挑戦すべく、何人かの同僚と新天地を求めた。
一から新しい雑誌を作る現場は、まるで戦場のようで家に帰れない日々が続き大変だったが、気力は充実していたし、楽しかった。
仕事に忙殺され、しばらくはフットボールどころではなかった。
嵐のような創刊期間が終わり落ち着くと、日々の取材の便宜を図って貰う必要上、日本雑誌協会にも加入し、いくつかの担当部会に加盟することになる。オレはスポーツ部会に加入し様々なスポーツイベントの現場に取材に行くようになった。再びフットボールとの接点が生まれたのだ。こんどは取材記者として日本サッカー界にコミットするようになったのである。
国立競技場の机つきの記者席に座ってサッカーを観るのはなんともいえず誇らしかった。記者証をかざしピッチに降り立ち、カメラマンとともに会見ルームへの廊下を歩く。少年の頃『サッカーマガジン』の投稿からはじまったフットボール人生が花開いたように思った。

それでも相変わらず、日本のサッカーは人気が無かった。
日本リーグは20年の歴史を迎えながらも相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
トヨタカップ以外では国際試合であっても記者席が埋まることも無く、媒体の名前を記帳さえすれば取材はまったくフリーだったくらいである。
日本協会も手をこまねいていたわけではない。木之本興三氏らの若いスタッフによって活性化へ取り組み始めた。選手たちにマスコットボールを試合後スタンドへ投げさせたり、スター選手の釜本にヌードにさせてポスターを作ってみたり、色々と試みはするのだが客足への影響はあまり無かった。企業スポーツとしてのアマチュアの実業団リーグでは構造的に限界があることは誰しもが判っていた。
一方で、高校サッカーは日本テレビのメディアの戦略の中でうまく取り込まれ、ひたむきな青春像を描く冬の甲子園というひとつのコンテンツとしてネットワークをあげて力を入れだし年々規模も拡大、高校選手権は一大イベントと成長していくのである。
それまで東京、メキシコと五輪を経験するなかで、まったく若い年代の育成に目が向いていなかった中で、高校サッカーの隆盛と、ユースからトップまでピラミッド型の組織を持つ読売クラブというプロ指向のクラブチームの登場が少しずつ日本サッカーの底上げに影響を与えだしたのは、スペインW杯予選での代表チームの健闘にも見られたとおりである。

1984年8月25日、日本の不世出のストライカー・釜本邦茂の現役引退試合が国立競技場で行われた。ペレ、オベラーツの友情出場もあって久々に国立には多くの観衆が集まった。オレは日本サッカー界最大のスーパースターのピッチ上の最後の姿を目に焼き付けるとともに、ひとつの時代の終焉を実感していた。
新旧交代の象徴ともなったこの試合のわずか1ヶ月後の9月30日、新しい時代の扉が開く。翌年のメキシコW杯の予選に向けた新生日本代表がソウルで行われた日韓定期戦でなんと2-1でアウェイで初めて韓国を倒す快挙を成し遂げたのである。
にわかに、日本代表への期待が高まった。

1985年3月21日、雨上がりの国立競技場。ワールドカップメキシコ大会アジア1次予選。1ヶ月前の初戦のシンガポール戦を3-1で難なく退けた日本代表は最初の関門である強豪・北朝鮮をホームに迎えた。
北朝鮮は1966年のワールドカップ本大会ベスト8以来、国際大会から長らく姿を消していたがアジア屈指の実力国であることに変わりは無い。国立には在日の応援団が大挙して詰めかけバックスタンドには巨大な北朝鮮国旗が翻り試合前から“イギョラ!イギョラ!(頑張れ)”の大声援に包まれた。ホームにもかかわらず完全にアウェイの状態である。
ピッチコンディションは最悪。スライディングをすると水しぶきがあがる、芝がはげた土の部分は泥濘と化し選手たちは泥まみれで戦っている。試合は体力に勝る北朝鮮に圧倒され苦しい展開だったが日本も怯まずに果敢にプレーしていてなんとかピンチを凌ぐ。そしてこの悪コンディションが皮肉にも日本に最高のプレゼントを与える結果になった。前半日本の中盤・西村昭宏から北朝鮮陣内に蹴りこまれたパスは大きすぎたが、ゴールエリア前にある水溜りでボールが止まってしまったのだ。そこに走りこんだ原博実がディフェンダーのスライディングより一瞬早く触って浮かし、飛び出してきたキーパーに向かってなだれ込むようにシュート!ボールは北朝鮮ゴールに吸い込まれていった。そしてこの得点が決勝点となり日本はラッキーな勝利を収めたのである。
試合終了後、寒さと空腹から飛び込んだ信濃町駅前の蕎麦屋で意気消沈していた在日の家族が、はしゃいで走り回る子供にため息をつきながら「この子達はもうチョソンも日本でもどっちでもいいんだよ」と悲しげに語っていたのを覚えている。
そうさ、時代は変わっているんだ。

1ヶ月後の4月30日、ピョンヤンの北朝鮮のアウェイ戦を勢いに乗った日本はなんとか0-0で凌ぎきったといううれしい外電が入ってきた。最大の関門をクリアした日本の快進撃は続き、1次予選の残るシンガポール戦(H)、香港戦(H)(A)に快勝し、なんと無敗のまま最終予選で韓国との代表決定戦に進出したのである。18年前の五輪最終予選以来、アジアの壁・韓国と再びメキシコ行きの切符をかけての大一番がやってきたのだ。しかも、五輪なんかとは比べ物にならないフットボールの最高峰ワールドカップへあとわずかで手が届く。ましてや昨年の日韓戦では勝利した相手である。実力的にはまだまだ及ばないかもしれないがひょっとしたら…。

夢を見させてくれ!

そして10月26日、その日がやってきた。
国立競技場は6万の観衆で埋め尽くされた。代表戦でこんな光景を見るのは初めてだった。
打ち振られる日の丸の小旗。耳をつんざくチアホーン。湧き上がるニッポンコール。
不覚にも涙が溢れてきた。
日本代表のスタメンは
GK 松井清隆(日本鋼管)
DF 松木安太郎(読売クラブ)
   加藤久(読売クラブ)
   石神良訓(ヤマハ発動機)
   都並敏史(読売クラブ)
MF 西村昭宏(ヤンマー)
   宮内聡(古河電工)
   木村和司(日産自動車)
   水沼貴史(日産自動車)
FW 戸塚哲也(読売クラブ)
   原博実(三菱重工)
新しい世代の若きイレブンたち。このメンバーで果たして世界への架け橋となれるのか?

しかしいちはやくプロ化に踏み切ったアジアの虎・韓国の壁はやはり高かった。
崔淳鎬、曺敏国、鄭竜煥 金鋳城、李泰昊、辺炳柱、若さと強さとスピードがあり前年の定期戦のメンバーとはがらりと変わっていた。
日本はホームの大声援に後押しされ立ち上がりから果敢に攻める。しかし韓国は冷静に前がかりの日本のDFの背後をついてカウンターを仕掛け、30分、42分と立て続けにゴールをした。韓国強し。意気消沈するスタンドに太極旗が振られる。前半終了間際、日本はゴール正面35mの位置でFKのチャンスをつかんだ。FKの名手・木村和司のキックは壁を越え、ゴール左隅に信じられない弾道を描き叩き込んだ。

夢を見させてくれ!!

息を吹き返した日本は後半も攻めはするものの韓国の強さにチャンスの芽はことごとくつまれる。そして終了間際、木村のCKから加藤久がニアに飛び込みヘッドで狙ったシュートがバーを叩いた。
フットボールの神は日本に微笑んではくれなかった。
開きかけた扉は、またもや目の前で閉じられてしまったのであった。

2点差の勝利を義務付けられたアウェイ戦で、日本が勝つにはこの相手でははっきり言って難しいのは明らかだった。世界はまだまだ遠いことを思い知らされたのである。
11月3日。韓国1-0日本

オレの、日本サッカーの夢のような1年間が終わった。



<以下続く>

2008年8月27日水曜日

拓かれた道

70年代後半のスポーツといえば、大学ラグビーの人気が頂点に達し始めていた頃である。
早明戦、早慶戦といったビッグカードには5万人以上の観衆を集め、学生のスター選手が脚光を浴びた。
確かにラグビーの試合での悲壮なまでのひたむきさは観るものをひきつけた。かく言うオレも兄がラガーになっていたので(サッカーの楽しさを教えてくれてもいたが)、実は秩父宮には人気が出る前から良く通ったものである。1971年のオールジャパンがオールイングランドを3-6まで追い詰めた伝説の激戦を現場で目撃した一人でもある。

我が母校の青学も対抗戦グループで4強の座を伺う実力校だったので、ラグビー部の奴らはしゃくだったがよくもてた。野獣のような風体のむくつけき男たちが、そろいのブレザーを着てキャンパスを歩くかたわらには、いつもいい女がまとわり付いていた。
大学時代のガールフレンドもラグビー観戦はうれしそうに付き合ってくれたが、サッカーは“なんか、おかっぱ頭のちっちゃい人のジャージ姿のイメージがあってダサい”(誰のことやねん)“あの競技場のパフパフするホーンもカッコ悪いし”と散々な言われ方だった。
実際日本リーグの試合には閑古鳥が鳴き、指差して数えられるくらいのガラガラの観客席は悲惨だったが、78年のW杯アルゼンチン大会はNHKでライブ中継され、世界のサッカーの凄さは一般の人の間でも認識が広がってはいた。しかしそれと日本のサッカーはまったく別物だった。

就職活動が始まると、オレもそろそろ真剣に進路を考えなければならなくなった。サッカー選手にもなれず中途半端に学生運動を挫折し、高校の進路指導では将来の希望に「馬賊」と答え教師を呆れさせていたくらいなので、将来設計なんぞあるわけもなかった。あえていえばマスコミ志望。当時兄もすでに新聞社に就職していたこともあったがそれに影響されたわけではない。何か物を書く仕事にでもつければいいな、という軽い気持ちだった。中学の頃、「サッカーマガジン」に投稿して掲載されたことの記憶がどこかにあったのかもしれない。
当時は就職難の時代だったので大新聞社はじめマスコミ業界は超難関だった。二流の私大じゃ歯のたちようも無い。就職部の求人票に、新聞のテレビ番組表配信の会社の募集があったので受けてみるとなぜか最終面接まで残ってしまった。社長と思しき面接官から“君は配信志望らしいが、わが社の「TVガイド」には興味は無いのか?”と聞かれた。オレは「TVガイド」の存在自体は知っていたが生憎手に取ったこともなかったので“あのお正月に出ている雑誌ですか?”と聞き直すと“「TVガイド」は毎週出ている!”と社長には思いっきりむっとされてしまった。が、逆に他の面接官にはウケ、それが功を奏したのだろう翌日内定の連絡が来た。世の中判らないものだ。

オレはこの会社、東京ニュース通信社の「週刊TVガイド」広告部に配属された。仕事は広告原稿の印刷会社への送稿がメインだったが見よう見まねで記事広告コピーを書いたりしていたら、出張校正室でY編集長から広告原稿にもかかわらず思いっきり朱を入れられた。“君が書いたのか?”と問われ、“すみません”と謝ったが、次の異動で編集部に呼ばれた。新入社員の原稿にしては少しは読めたということなのだろう、ちぇ謝らなければよかった。多少回り道はしたが、「サッカーマガジン」の投稿から10年近くたってまがりなりにも“書く”ことが職業となったというわけだ。

1979年にはワールドユース世界大会が日本で開催された。FIFAの初めての主催試合の開催国となった日本は実力はともかく、世界規模の大会で高い運営能力をサッカーの先進国に印象付け、その後のビッグイベントの道を拓いた。この大会はアルゼンチンのディエゴ・マラドーナが衝撃の世界デビューを果たした大会でもあった。
新しい時代が到来しつつあったのだ。
1980年は日本サッカー界でちょっとした動きがあった。若返り策を図っていた代表チームに、プロ化をにらみブラジル選手を多く所属させ日本リーグでも異端の存在だった読売クラブからも選手が加わった。彼らの多くは学校サッカーを経験せずにユース年代からクラブで育成されたエリートで、なかでも戸塚哲也は天才の名を思うままにしていた。小学生の頃に“僕が一人抜けば人数的に優位になれる”と言い放った小憎らしい男である。この戸塚らが加わリ、金田、加藤久、木村、都並、風間といったテクニックにも戦術にも長けた新世代の代表チームは80年12月のスペインW杯アジア・オセアニア予選で中国、北朝鮮に惜敗したものの、華麗なドリブルとパス回しで会場となった香港のファンを魅了した。日本代表も何かが変わりつつあった。今思えば時代の息吹というやつだったのかもしれない。
夢を見させてくれ!
苦杯をなめ続けてきた韓国や中国、北朝鮮に勝つ日はそう遠くはないことを。

そして翌年には第1回のトヨタカップが国立競技場で行われ、イングランドのノッティンガム・フォレストとウルグアイのナシオナル・モンテビデオがクラブ世界一の座を賭け激突した。ピーター・シルトン、トレバー・フランシス、ワルデマール・ビクトリーノといったスーパースターたちが目の色を変えて真剣勝負する文字通り世界最高峰の試合を目の当たりにし、オレは眠っていたサッカーへの情熱が再び湧き上がるのを感じた。

なんとなくフットボールの熱気が周囲に立ち上りはじめていた。
会社の若手の中にも同じ思いの隠れサッカーファンが何人かいた。彼らも同じ夢を見ていたのかもしれない。
同じようにボールを蹴りたい衝動に駆られていたのかもしれない。声をかけるとサッカーチームの結成の話がとんとん拍子に進み、こうして草サッカーチーム「DJS」が誕生した。チーム名は別にはじめていた草野球チーム“ドジーズ”(いうまでも無くLAドジャースからとった)のジュニアスペシャルというアイドルグループに由来するいい加減な命名だった。しかしメンバーには高校での経験者が思ったより多く、なかには大学の体育会OBもいたのも心強かった。後にエッセイストになった泉麻人も仲間の一人だった(口ほども無かったが)。上智大のグラウンドで広告代理店のチームと対戦したときは「サッカーダイジェスト」誌の取材もされた。パブリシティを仕込んだりするのはお手の物だ。試合の後のビールパーティーも楽しみだった。
あの遠い子供のときの思い出が、初めて空き地でボールを蹴った感覚が、またもや脳裏を掠めた。

そんなある日、人を介して助っ人で来てもらった服部匡伸君という青年のプレーにみな度肝を抜かれた。レベルが違った。聞けば数年前の高校選手権の都予選の決勝戦で大活躍した国学院久我山のストライカーだった。強力な助っ人を得たDJSは連勝し、服部君は後に1998年に惜しくも早世するまでサッカーだけではなく職場まで移籍させてしまうことになる。

後列右から5人目が泉麻人、後列右から2人目が服部選手
3人目が筆者

<以下続く>

2008年8月7日木曜日

美しく勝利せよ

70年代初頭は政治の季節だった。
進学した都立武蔵丘高校は、その春の卒業式でバリケード封鎖に機動隊の出動が要請され高校でははじめての逮捕者が出るという闘争があったばかりで、入学式にも校門前で反戦高協のメンバーがビラを配っていたり何やら事件の余韻のような騒然とした空気が漂っていた。
そんな高校に中学時代のライバルたち、石神井東のUT、石神井西のMR、豊玉のJO、天沼のIZらいずれも各中学のエース級の早々錚錚たるメンバーが入学していた。
何度も大会で当たってきた相手だけに顔を合わせるたびに“おう久しぶりだな。今度は一緒に頑張ろうぜ”などと声をかけられた。

70年6月14日、安保粉砕統一行動は7万人のデモ隊で都心を埋めつくした。その隊列の中にオレも加わっていた。日米安保条約の自動改定を粉砕せよ!日本の左翼は革命の夢を見ていた、それは伸ばせば手が届くところにあるのではないのか?
オレは街頭での反権力の闘いのダイナミズムに酔った。時代は急を告げているのだ、自然とグラウンドから足が遠のいていった。毎日鉄筆でガリ版のアジビラを書いた。政治活動とフットボールの両立は時間が許さなかった。
だが、フットボールの病はそんなに簡単には払拭できやしない。8月の日本代表のベンフィカ戦、オレはエウゼビオ(当時はオイセビオと呼んでいた)を見たくてデモをサボって国立へ駆けつけた。この試合で古河電工の若きストライカーが代表にデビューする。奥寺康彦、まだ19歳の新鋭だった。日本のサッカーはメキシコの銅メダル以来、新旧の世代交代が遅れ、徐々に輝きを失っていた。冬の時代が始まりかけていた。その中にあって奥寺の出現は残された一筋の光明だった。

権力はそんなに簡単に左翼の跳ね上がりを許さず、弾圧は熾烈を極めた。安保闘争を押さえ込まれ、三里塚の鉄塔が落ちる。沖縄返還闘争も不発に終わる。
八方がふさがれた暴力のベクトルは仲間に向けられ不毛な同士討ちが始まってしまった。三島が自決し、連合赤軍の銃撃戦以降虚無的なテロリズムの嵐が吹き荒れた。街頭で隊列を組んでいた同志たちは出口のない迷宮をさまよい、疲弊し、挫折し、次々と転向していった。
オレはといえば新宿のJAZZ喫茶や映画館に入り浸り、自分のオトシマエをつけられずに悶々としていた。

だが高校のサッカー部の仲間たちはグランドに姿を現さないオレを疎んだりしなかった。UTなどはよく夜中にバイクで部屋に遊びにきて、足がすっかり遠のいた部活の様子を話してくれた。彼らは順当に強くなり国学院久我山や帝京とも互角の勝負をするようになり、高校3年の選手権の予選では都のベスト32まで駒を進めた。彼らの活躍は嬉しかった。だがオレはプレイヤーとしての夢はもう描くことは出来なかったが、後悔はしていなかった。人生はフットボールだけではない、そのときはそう自分に言い聞かせていたのだ。

日本のサッカーは低迷を極めていた。アジアのローカル大会で惨敗し、遊びでやってくる南米や欧州のチームに子供のようにあしらわれてしまう。72年、メキシコW杯で神の域に達していたペレを擁するサントスFCが来日し、その神様の妙技に目を瞠った。日本は世界から確実に置いていかれてしまったのだ。アマチュアリズムで硬直化した発想でレベルが上るわけが無い。日本リーグは閑古鳥が鳴いていた。
夢を見させてくれ!とわめいたところで先は全く見えてこなかった。

一年の浪人生活でバイトばっかりしていたが、オレはなんとか青山学院大学に滑り込んだ。
心にぽっかりと空いた空洞はなかなか埋まらない。
誰か夢を見させてくれ!
そんなある日高等部出身の友人KBに誘われ高等部サッカー部OBチームの試合に参加し、久々にスパイクを履く機会があった。
身体はなまり、煙草で肺は毒されすぐ息が上がる。それでも子供の頃、兄と原っぱでボールを蹴ったあの日の楽しい記憶が戻ってきた。
選手生活はフェードアウトしたが、フットボールにはこういう楽しみ方もあるんだと認識した。
あらためてフットボールの病に身をゆだねるのも悪くない。

74年のワールドカップ西ドイツ大会、東京12チャンネルは決勝戦を中継する英断を下し、オレはテレビにかじりついた。日本のサッカーは最低だったが世界は確実に新しい時代に突入していた。それまでペレのブラジル、ベッケンバウアーの西ドイツの陰に隠れていたオランダが彗星のように表舞台に現れた。リヌス・ミケルスの指揮するトータルフットボールは天才ヨハン・クライフによって完成され、決勝戦では不屈の西ドイツの前に惜敗したものの、サッカー界に衝撃を与え、世界を魅了した。
“美しく勝利せよ”
なんと甘美なスローガンだろう。フットボールは勝利を目指すだけでなく美しくあらなければならないのだ。
自由奔放なオレンジの軍団の闘いはフットボールをひとつ上の極みに押し上げたのだ。

77年、神様だったペレが引退した。皇帝ベッケンバウアーとともに世界中で引退興行が行われ、東京でもサヨナラゲームが行われた。対戦する日本代表は二宮寛が前年から指揮を執って抜本的に若返りを図っていた。金田喜念19歳、加藤久20歳、西野朗21歳、前田秀樹23歳。この若い選手たちがフィールドから去っていく神様を相手に溌剌としたプレーで挑んだ。
まるでサッカーはこれで終わりではなく明日からも続くんだ、と言わんばかりの“若さ”は気持ちが良かった。かすかな希望を見たような気がした。
それはサッカーだけでなく、自分自身の再生への一歩だったのかもしれない。


<以下続く>

2008年7月29日火曜日

夢見る日々

1960年、日本は安保闘争の怒号に包まれていた。
だが、戦後の復興は着々と進み“もはや戦後ではない”と有識者はのたまい、高度経済成長の下地が出来上がっていた。オレのオヤジもクリスマスともなればとんがり防止に鼻眼鏡をつけて、寿司折片手に千鳥足で帰ってきたもんだ。
日本中が夢を見ていた。
4年後には東京にオリンピックが来るんだ。それからというもの日本橋の上を首都高が走り、道路は舗装され、街が次々と変貌していく。
学校からとぼとぼ家路についていたある日の夕方、オレの背後にリベットの音が遠くにヒグラシが鳴くように響いていた。
その日、オレは小学校の野球チームの選手選考からもれた。
お願いだ、夢を見させてくれ!


日本サッカー協会は東京オリンピックを控えて、西ドイツからディットマール・クラマーをコーチとして招聘した。戦後復興の集大成になる国家イベントの東京オリンピック。開催国ゆえ予選免除だけになおのこと無様な姿は見せられない。だが甘くはなかった。クラマーは日本のレベルに驚愕した。リフティングすら満足に出来る選手が居なかった。
それでもクラマーは忍耐強くドイツ人の生真面目さも手伝い基本的技術から戦術まで、伝道師のごとく日本にサッカーの種を撒きだした。
杉山隆一、釜本邦茂、若い才能の芽がふいた。

1964年、秋晴れの10月10日東京オリンピック開幕。
わが家のテレビには色がついた。
日本中が夢を見ている。
ヘイズにショランダー、チャスラフスカ、へーシング、東洋の魔女。
日本中が沸いた。
サッカーは地味だったが、五輪なら何でも見たいという観客で競技場は埋まった。
サッカー日本代表は、フットボールの神が遣わしたドイツ人コーチの魔法にかかり徐々にまともなチームに成長しつつあった。
本大会に臨む直前の遠征で、戦前に16点取られ、オレが生まれた日に競輪場で7点取られたスイスのグラスホッパーに4点とって勝利するまでになっていたのだ。そして本大会、奇蹟が起きた。
優勝候補筆頭のアルゼンチンとの初戦、超格下との対戦になめきった南米の王者に日本は果敢に立ち向かい、なんと3-2で勝ってしまった。世界中が驚き、ベルリン五輪スウェーデン戦以来の番狂わせと報じられた。決勝のダイビングヘッドを決めた殊勲の川淵三郎は、そのとき自分が将来、協会の会長になるなんて夢にも思ってはいなかっただろう。
しかし、続く、ガーナ戦に惜敗し、それでも決勝トーナメントに進出したが、チェコに0-4で完敗し世界の壁の高さを痛感させられてしまった。
クラマーは帰国するに当たって、日本をより強化するためには全国的なリーグが必要だと言い残して去っていった。そのご託宣に従い実業団のトップチームによって日本サッカーリーグが組織され、日本人がサッカーの面白さにようやく気がつきだした。

野球チームの選手になれなかったオレに体育のK先生が新しく作るサッカーチームへと誘った。
K先生は大学でサッカー部に所属していたので、自分の赴任先でいち早く少年への指導の重要性を痛感していたのだろう。杉並区立桃井第一小学校に公立小学校では珍しいサッカー部が出来た。
桃一はそれまでも野球の強豪で知られていた。運動が出来る子ばかり選抜した野球部の少年たちはサッカーをやらせてもサッカー部の子より断然上手かった。他校との試合があれば野球部の子がかり出されオレは控えに回った。アンフェアだと思ったが、世の中なんてこんなもんだ。サッカー部の1軍といっても実力は野球部の下だったのだ。女の子の声援は野球チームに向けられ、落ちこぼれのオレたちは見向きもされない中、ひたすらボールを蹴った。するといつの日だったか兄貴と一緒に原っぱでボールを蹴った、あのときの楽しい感覚が甦ってきた。野球には未練があったが、たとえ落ちこぼれていてもサッカーも悪くないなと思った。
その頃、サッカーが盛んだった小学校は東京にはまだそれほど多くなく、暁星、韓国学園といった名門チームとも試合をした。いきなり日韓戦である。ボロ負けだったがサッカーでも桃一の名は知られ始めた。

中学は杉並から地元の練馬区の石神井中に進んだ。
石神井は中学サッカーの名門で当時は杉並の中瀬、三多摩の保谷と東京の覇を競うほどだった。
唯一、桃一サッカー部で才能に溢れていたHG君も石神井に入学したことで、オレはHGに誘われるまま引きずられるようにサッカー部に入部した。
クラブはきつかった。名門・帝京に進んだ先輩が帝京流の猛練習としごきを容赦なく強いた。練習後の下級生へのリンチも当たり前だった。
毎日が憂鬱だった。土曜日の午後のフジテレビの人気番組「Beat Pops」が見たくて練習をサボって、後でばれて先輩から嫌というほど殴られた。
それでもサッカーを続けられたのはHGとともに自分がレギュラーに抜擢されたからだ。桃一の名前が効いた。オレはたいした選手ではなかったが桃一出身というだけで監督に目をかけられたのだ。

日本リーグは人気となってサッカーブームが訪れた。
三菱ダイヤモンドサッカーが東京12チャンネルで始まり、1966年W杯イングランド大会の記録映画「GOAL」が劇場公開され世界のサッカーの情報も少しづつ入るようになった。
南米のパルメイラスや欧州のアーセナルが来日し、日本代表も善戦するようになった。
1967年メキシコ五輪の最終予選、オレは雨の国立で日韓の激闘を震えながら見ていた。
韓国のエース金基福のロングシュートがバーに当たったとき俺は悲鳴を上げたが、フットボールの神は日本を見捨てずメキシコへと導いたのだ。
そしてメキシコの銅メダル。朝学校を遅刻するのもかまわず実況中継にかじりついていた。

オレは夢を見ていた。
いつの日か、このオレが日本代表のピッチに立つ日を。

そしてある日、今思えば、その後の人生を決定付ける事が起こる。
なにげなく、愛読していたサッカーマガジンに自分の意見を書いて送ってみたのだが、1968年10月号の投稿欄にその文章が掲載されたのだ。初めて自分の名前と文章が市販されている雑誌に活字となって載ったことに興奮した。
掲載記念にサッカーボールをかたどったピンバッジが送られてきたのも嬉しかった。
投稿のタイトルは<日本のプロ化反対に一言>。前号のアマ崇拝の保守的な投稿に反発した内容だ。オレなりにプロリーグの出現を夢見ていた。
そこでプレーする自分を夢見ていた。
フフン、今読めば恥ずかしくなる中坊の作文だ。
オレが編集担当なら間違いなく没にしていただろう。
しかし同じ投稿欄に、同じくプロ化賛成の立場で理路整然たる文章があった。きっとずっと大人のファンが書いたんだろう。
後藤健生。 投稿者の名前だった。



<以下続く>

2008年7月23日水曜日

最初の記憶

フットボールの病に囚われてしまった最初の記憶はいつのことだったか。

あれは兄に連れられて実家の裏の空き地に行ったとき、おそらくは5,6歳の頃だったかもしれん。近所の洟垂れどもを集め学校で習ったばっかりのサッカーの真似事を始めた時のことだ。オレはおみそだったが人数あわせでゲームに入れさせられ見よう見まねで走り出した。“手を使っちゃいけないんだ”ということだけを教わったので体の後ろに手を結んでいたら転んでしまった。
“バ~カ。手をわざわざ結ばなくったっていいんだよ”と兄から罵倒されたが、ボールを蹴る行為の楽しさだけが脳裏に焼きついてしまった。それが最初の記憶である。

昭和30年代、世の中は野球の時代だった。彗星のように登場した長嶋茂雄に誰しもが憧れた。洟垂れどもも一度気まぐれにボールを蹴ったがその後は野球以外見向きもしなかった。
オレもその後、しばらくその楽しい遊びを思い出すこともなかった。

その頃のサッカーだって?
語るに落ちるとはこのことだ。

オレが生まれた1955年。前年のスイスW杯予選で日本代表は戦後初めて国際的な大会へ挑戦し韓国に惨敗した。そして翌年、協会も一から出直すことを決意し、技術を磨き最新の戦術を学ぶため当時はアジアの強国だったビルマへ遠征することになった。日本のサッカーはまだそんなレベルだった。代表が留守中の1月22日、スイスの名門グラスホッパーが日本に立ち寄り、日本協会はあわててベテラン中心の選抜チームを召集して試合を組んだ。グラスホッパーは、戦前ベルリン五輪の直後に親善試合を組んでもらったことがある。日本は16点取られて負けたがその縁もあったのだろう、世界ツアーの途中にわざわざ来日してくれたのである。そんな相手の善意に応えた場所は後楽園競輪場だ。冗談じゃない。本当に競輪場のフィールドで国際試合である。周りにはバンクの傾斜があるので蹴りだしたボールは蹴った選手に戻ってきたかも知れん。
グラスホッパーのイレブンはさぞかし驚いたことだろう。試合は1-7。惨憺たる有様だった。

その日、オレは産湯に浸かり泣き喚いた“夢を見させてくれ”と。

その日の映像が今に残っている。

<
http://j-footage.vox.com/library/video/6a00d41420c1f0685e00e398d89b2c0004.html

そのときは日本中がまだこのフットボールの病を知らなかった。
いったい夢を見る日は来るのか?

しかしフットボールの神はそんな日本でもすこしづつ扉をあけようとしていたのだ。

<以下続く>

ブログのキックオフにあたり


ファッチ・ソニャーレ!
(夢を見させてくれ)

ヴェローナFCのクルヴァ席に掲げられるダンマクの文句だ。
オレは実際に見たわけではないが、英国人でありながらこのプロビンツァの一チームに魅せられてしまった作家ティム・パークスが「狂熱のシーズン」に書き記した。


夢が見たい。
そうさ、世界中に存在するフットボールの魔力に囚われてしまった奴の渇きの呪文だ。

ファッチ・ソニャーレ!

昔、放浪の詩人も書いたではないか
「こないものか、こないものか陶酔のときが」(アルチュール・ランボー)
これこそが病の床にいるものの叫び。

ファッチ・ソニャーレ!

愛する者たちの頭上に輝かしい勝利が来る日。
愛する者たちがピッチの上で信じられないような妙技を披露する日。
愛する者たちが凶悪なライバルたちを叩きのめす日。

そんな瞬間を夢見たい。

フットボールの魔力に中毒症状を起こしてしまった魂の渇きを満たしてくれ!

オレは誓う。いつか肉体が滅ぶその日まで。さまよい続けるフットボールの日々を書き続けよう。
だから、CALCIOよ

ファッチ・ソニャーレ! 夢を見させてくれ