2008年9月25日木曜日

世界への遠い架け橋

1982年、オレは会社を移ることになった。
当時、純文学主体の出版社だった角川書店が雑誌を含めた総合出版社への事業拡大を企画しており、雑誌での新たな可能性に挑戦すべく、何人かの同僚と新天地を求めた。
一から新しい雑誌を作る現場は、まるで戦場のようで家に帰れない日々が続き大変だったが、気力は充実していたし、楽しかった。
仕事に忙殺され、しばらくはフットボールどころではなかった。
嵐のような創刊期間が終わり落ち着くと、日々の取材の便宜を図って貰う必要上、日本雑誌協会にも加入し、いくつかの担当部会に加盟することになる。オレはスポーツ部会に加入し様々なスポーツイベントの現場に取材に行くようになった。再びフットボールとの接点が生まれたのだ。こんどは取材記者として日本サッカー界にコミットするようになったのである。
国立競技場の机つきの記者席に座ってサッカーを観るのはなんともいえず誇らしかった。記者証をかざしピッチに降り立ち、カメラマンとともに会見ルームへの廊下を歩く。少年の頃『サッカーマガジン』の投稿からはじまったフットボール人生が花開いたように思った。

それでも相変わらず、日本のサッカーは人気が無かった。
日本リーグは20年の歴史を迎えながらも相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
トヨタカップ以外では国際試合であっても記者席が埋まることも無く、媒体の名前を記帳さえすれば取材はまったくフリーだったくらいである。
日本協会も手をこまねいていたわけではない。木之本興三氏らの若いスタッフによって活性化へ取り組み始めた。選手たちにマスコットボールを試合後スタンドへ投げさせたり、スター選手の釜本にヌードにさせてポスターを作ってみたり、色々と試みはするのだが客足への影響はあまり無かった。企業スポーツとしてのアマチュアの実業団リーグでは構造的に限界があることは誰しもが判っていた。
一方で、高校サッカーは日本テレビのメディアの戦略の中でうまく取り込まれ、ひたむきな青春像を描く冬の甲子園というひとつのコンテンツとしてネットワークをあげて力を入れだし年々規模も拡大、高校選手権は一大イベントと成長していくのである。
それまで東京、メキシコと五輪を経験するなかで、まったく若い年代の育成に目が向いていなかった中で、高校サッカーの隆盛と、ユースからトップまでピラミッド型の組織を持つ読売クラブというプロ指向のクラブチームの登場が少しずつ日本サッカーの底上げに影響を与えだしたのは、スペインW杯予選での代表チームの健闘にも見られたとおりである。

1984年8月25日、日本の不世出のストライカー・釜本邦茂の現役引退試合が国立競技場で行われた。ペレ、オベラーツの友情出場もあって久々に国立には多くの観衆が集まった。オレは日本サッカー界最大のスーパースターのピッチ上の最後の姿を目に焼き付けるとともに、ひとつの時代の終焉を実感していた。
新旧交代の象徴ともなったこの試合のわずか1ヶ月後の9月30日、新しい時代の扉が開く。翌年のメキシコW杯の予選に向けた新生日本代表がソウルで行われた日韓定期戦でなんと2-1でアウェイで初めて韓国を倒す快挙を成し遂げたのである。
にわかに、日本代表への期待が高まった。

1985年3月21日、雨上がりの国立競技場。ワールドカップメキシコ大会アジア1次予選。1ヶ月前の初戦のシンガポール戦を3-1で難なく退けた日本代表は最初の関門である強豪・北朝鮮をホームに迎えた。
北朝鮮は1966年のワールドカップ本大会ベスト8以来、国際大会から長らく姿を消していたがアジア屈指の実力国であることに変わりは無い。国立には在日の応援団が大挙して詰めかけバックスタンドには巨大な北朝鮮国旗が翻り試合前から“イギョラ!イギョラ!(頑張れ)”の大声援に包まれた。ホームにもかかわらず完全にアウェイの状態である。
ピッチコンディションは最悪。スライディングをすると水しぶきがあがる、芝がはげた土の部分は泥濘と化し選手たちは泥まみれで戦っている。試合は体力に勝る北朝鮮に圧倒され苦しい展開だったが日本も怯まずに果敢にプレーしていてなんとかピンチを凌ぐ。そしてこの悪コンディションが皮肉にも日本に最高のプレゼントを与える結果になった。前半日本の中盤・西村昭宏から北朝鮮陣内に蹴りこまれたパスは大きすぎたが、ゴールエリア前にある水溜りでボールが止まってしまったのだ。そこに走りこんだ原博実がディフェンダーのスライディングより一瞬早く触って浮かし、飛び出してきたキーパーに向かってなだれ込むようにシュート!ボールは北朝鮮ゴールに吸い込まれていった。そしてこの得点が決勝点となり日本はラッキーな勝利を収めたのである。
試合終了後、寒さと空腹から飛び込んだ信濃町駅前の蕎麦屋で意気消沈していた在日の家族が、はしゃいで走り回る子供にため息をつきながら「この子達はもうチョソンも日本でもどっちでもいいんだよ」と悲しげに語っていたのを覚えている。
そうさ、時代は変わっているんだ。

1ヶ月後の4月30日、ピョンヤンの北朝鮮のアウェイ戦を勢いに乗った日本はなんとか0-0で凌ぎきったといううれしい外電が入ってきた。最大の関門をクリアした日本の快進撃は続き、1次予選の残るシンガポール戦(H)、香港戦(H)(A)に快勝し、なんと無敗のまま最終予選で韓国との代表決定戦に進出したのである。18年前の五輪最終予選以来、アジアの壁・韓国と再びメキシコ行きの切符をかけての大一番がやってきたのだ。しかも、五輪なんかとは比べ物にならないフットボールの最高峰ワールドカップへあとわずかで手が届く。ましてや昨年の日韓戦では勝利した相手である。実力的にはまだまだ及ばないかもしれないがひょっとしたら…。

夢を見させてくれ!

そして10月26日、その日がやってきた。
国立競技場は6万の観衆で埋め尽くされた。代表戦でこんな光景を見るのは初めてだった。
打ち振られる日の丸の小旗。耳をつんざくチアホーン。湧き上がるニッポンコール。
不覚にも涙が溢れてきた。
日本代表のスタメンは
GK 松井清隆(日本鋼管)
DF 松木安太郎(読売クラブ)
   加藤久(読売クラブ)
   石神良訓(ヤマハ発動機)
   都並敏史(読売クラブ)
MF 西村昭宏(ヤンマー)
   宮内聡(古河電工)
   木村和司(日産自動車)
   水沼貴史(日産自動車)
FW 戸塚哲也(読売クラブ)
   原博実(三菱重工)
新しい世代の若きイレブンたち。このメンバーで果たして世界への架け橋となれるのか?

しかしいちはやくプロ化に踏み切ったアジアの虎・韓国の壁はやはり高かった。
崔淳鎬、曺敏国、鄭竜煥 金鋳城、李泰昊、辺炳柱、若さと強さとスピードがあり前年の定期戦のメンバーとはがらりと変わっていた。
日本はホームの大声援に後押しされ立ち上がりから果敢に攻める。しかし韓国は冷静に前がかりの日本のDFの背後をついてカウンターを仕掛け、30分、42分と立て続けにゴールをした。韓国強し。意気消沈するスタンドに太極旗が振られる。前半終了間際、日本はゴール正面35mの位置でFKのチャンスをつかんだ。FKの名手・木村和司のキックは壁を越え、ゴール左隅に信じられない弾道を描き叩き込んだ。

夢を見させてくれ!!

息を吹き返した日本は後半も攻めはするものの韓国の強さにチャンスの芽はことごとくつまれる。そして終了間際、木村のCKから加藤久がニアに飛び込みヘッドで狙ったシュートがバーを叩いた。
フットボールの神は日本に微笑んではくれなかった。
開きかけた扉は、またもや目の前で閉じられてしまったのであった。

2点差の勝利を義務付けられたアウェイ戦で、日本が勝つにはこの相手でははっきり言って難しいのは明らかだった。世界はまだまだ遠いことを思い知らされたのである。
11月3日。韓国1-0日本

オレの、日本サッカーの夢のような1年間が終わった。



<以下続く>