2008年7月29日火曜日

夢見る日々

1960年、日本は安保闘争の怒号に包まれていた。
だが、戦後の復興は着々と進み“もはや戦後ではない”と有識者はのたまい、高度経済成長の下地が出来上がっていた。オレのオヤジもクリスマスともなればとんがり防止に鼻眼鏡をつけて、寿司折片手に千鳥足で帰ってきたもんだ。
日本中が夢を見ていた。
4年後には東京にオリンピックが来るんだ。それからというもの日本橋の上を首都高が走り、道路は舗装され、街が次々と変貌していく。
学校からとぼとぼ家路についていたある日の夕方、オレの背後にリベットの音が遠くにヒグラシが鳴くように響いていた。
その日、オレは小学校の野球チームの選手選考からもれた。
お願いだ、夢を見させてくれ!


日本サッカー協会は東京オリンピックを控えて、西ドイツからディットマール・クラマーをコーチとして招聘した。戦後復興の集大成になる国家イベントの東京オリンピック。開催国ゆえ予選免除だけになおのこと無様な姿は見せられない。だが甘くはなかった。クラマーは日本のレベルに驚愕した。リフティングすら満足に出来る選手が居なかった。
それでもクラマーは忍耐強くドイツ人の生真面目さも手伝い基本的技術から戦術まで、伝道師のごとく日本にサッカーの種を撒きだした。
杉山隆一、釜本邦茂、若い才能の芽がふいた。

1964年、秋晴れの10月10日東京オリンピック開幕。
わが家のテレビには色がついた。
日本中が夢を見ている。
ヘイズにショランダー、チャスラフスカ、へーシング、東洋の魔女。
日本中が沸いた。
サッカーは地味だったが、五輪なら何でも見たいという観客で競技場は埋まった。
サッカー日本代表は、フットボールの神が遣わしたドイツ人コーチの魔法にかかり徐々にまともなチームに成長しつつあった。
本大会に臨む直前の遠征で、戦前に16点取られ、オレが生まれた日に競輪場で7点取られたスイスのグラスホッパーに4点とって勝利するまでになっていたのだ。そして本大会、奇蹟が起きた。
優勝候補筆頭のアルゼンチンとの初戦、超格下との対戦になめきった南米の王者に日本は果敢に立ち向かい、なんと3-2で勝ってしまった。世界中が驚き、ベルリン五輪スウェーデン戦以来の番狂わせと報じられた。決勝のダイビングヘッドを決めた殊勲の川淵三郎は、そのとき自分が将来、協会の会長になるなんて夢にも思ってはいなかっただろう。
しかし、続く、ガーナ戦に惜敗し、それでも決勝トーナメントに進出したが、チェコに0-4で完敗し世界の壁の高さを痛感させられてしまった。
クラマーは帰国するに当たって、日本をより強化するためには全国的なリーグが必要だと言い残して去っていった。そのご託宣に従い実業団のトップチームによって日本サッカーリーグが組織され、日本人がサッカーの面白さにようやく気がつきだした。

野球チームの選手になれなかったオレに体育のK先生が新しく作るサッカーチームへと誘った。
K先生は大学でサッカー部に所属していたので、自分の赴任先でいち早く少年への指導の重要性を痛感していたのだろう。杉並区立桃井第一小学校に公立小学校では珍しいサッカー部が出来た。
桃一はそれまでも野球の強豪で知られていた。運動が出来る子ばかり選抜した野球部の少年たちはサッカーをやらせてもサッカー部の子より断然上手かった。他校との試合があれば野球部の子がかり出されオレは控えに回った。アンフェアだと思ったが、世の中なんてこんなもんだ。サッカー部の1軍といっても実力は野球部の下だったのだ。女の子の声援は野球チームに向けられ、落ちこぼれのオレたちは見向きもされない中、ひたすらボールを蹴った。するといつの日だったか兄貴と一緒に原っぱでボールを蹴った、あのときの楽しい感覚が甦ってきた。野球には未練があったが、たとえ落ちこぼれていてもサッカーも悪くないなと思った。
その頃、サッカーが盛んだった小学校は東京にはまだそれほど多くなく、暁星、韓国学園といった名門チームとも試合をした。いきなり日韓戦である。ボロ負けだったがサッカーでも桃一の名は知られ始めた。

中学は杉並から地元の練馬区の石神井中に進んだ。
石神井は中学サッカーの名門で当時は杉並の中瀬、三多摩の保谷と東京の覇を競うほどだった。
唯一、桃一サッカー部で才能に溢れていたHG君も石神井に入学したことで、オレはHGに誘われるまま引きずられるようにサッカー部に入部した。
クラブはきつかった。名門・帝京に進んだ先輩が帝京流の猛練習としごきを容赦なく強いた。練習後の下級生へのリンチも当たり前だった。
毎日が憂鬱だった。土曜日の午後のフジテレビの人気番組「Beat Pops」が見たくて練習をサボって、後でばれて先輩から嫌というほど殴られた。
それでもサッカーを続けられたのはHGとともに自分がレギュラーに抜擢されたからだ。桃一の名前が効いた。オレはたいした選手ではなかったが桃一出身というだけで監督に目をかけられたのだ。

日本リーグは人気となってサッカーブームが訪れた。
三菱ダイヤモンドサッカーが東京12チャンネルで始まり、1966年W杯イングランド大会の記録映画「GOAL」が劇場公開され世界のサッカーの情報も少しづつ入るようになった。
南米のパルメイラスや欧州のアーセナルが来日し、日本代表も善戦するようになった。
1967年メキシコ五輪の最終予選、オレは雨の国立で日韓の激闘を震えながら見ていた。
韓国のエース金基福のロングシュートがバーに当たったとき俺は悲鳴を上げたが、フットボールの神は日本を見捨てずメキシコへと導いたのだ。
そしてメキシコの銅メダル。朝学校を遅刻するのもかまわず実況中継にかじりついていた。

オレは夢を見ていた。
いつの日か、このオレが日本代表のピッチに立つ日を。

そしてある日、今思えば、その後の人生を決定付ける事が起こる。
なにげなく、愛読していたサッカーマガジンに自分の意見を書いて送ってみたのだが、1968年10月号の投稿欄にその文章が掲載されたのだ。初めて自分の名前と文章が市販されている雑誌に活字となって載ったことに興奮した。
掲載記念にサッカーボールをかたどったピンバッジが送られてきたのも嬉しかった。
投稿のタイトルは<日本のプロ化反対に一言>。前号のアマ崇拝の保守的な投稿に反発した内容だ。オレなりにプロリーグの出現を夢見ていた。
そこでプレーする自分を夢見ていた。
フフン、今読めば恥ずかしくなる中坊の作文だ。
オレが編集担当なら間違いなく没にしていただろう。
しかし同じ投稿欄に、同じくプロ化賛成の立場で理路整然たる文章があった。きっとずっと大人のファンが書いたんだろう。
後藤健生。 投稿者の名前だった。



<以下続く>

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