2008年8月7日木曜日

美しく勝利せよ

70年代初頭は政治の季節だった。
進学した都立武蔵丘高校は、その春の卒業式でバリケード封鎖に機動隊の出動が要請され高校でははじめての逮捕者が出るという闘争があったばかりで、入学式にも校門前で反戦高協のメンバーがビラを配っていたり何やら事件の余韻のような騒然とした空気が漂っていた。
そんな高校に中学時代のライバルたち、石神井東のUT、石神井西のMR、豊玉のJO、天沼のIZらいずれも各中学のエース級の早々錚錚たるメンバーが入学していた。
何度も大会で当たってきた相手だけに顔を合わせるたびに“おう久しぶりだな。今度は一緒に頑張ろうぜ”などと声をかけられた。

70年6月14日、安保粉砕統一行動は7万人のデモ隊で都心を埋めつくした。その隊列の中にオレも加わっていた。日米安保条約の自動改定を粉砕せよ!日本の左翼は革命の夢を見ていた、それは伸ばせば手が届くところにあるのではないのか?
オレは街頭での反権力の闘いのダイナミズムに酔った。時代は急を告げているのだ、自然とグラウンドから足が遠のいていった。毎日鉄筆でガリ版のアジビラを書いた。政治活動とフットボールの両立は時間が許さなかった。
だが、フットボールの病はそんなに簡単には払拭できやしない。8月の日本代表のベンフィカ戦、オレはエウゼビオ(当時はオイセビオと呼んでいた)を見たくてデモをサボって国立へ駆けつけた。この試合で古河電工の若きストライカーが代表にデビューする。奥寺康彦、まだ19歳の新鋭だった。日本のサッカーはメキシコの銅メダル以来、新旧の世代交代が遅れ、徐々に輝きを失っていた。冬の時代が始まりかけていた。その中にあって奥寺の出現は残された一筋の光明だった。

権力はそんなに簡単に左翼の跳ね上がりを許さず、弾圧は熾烈を極めた。安保闘争を押さえ込まれ、三里塚の鉄塔が落ちる。沖縄返還闘争も不発に終わる。
八方がふさがれた暴力のベクトルは仲間に向けられ不毛な同士討ちが始まってしまった。三島が自決し、連合赤軍の銃撃戦以降虚無的なテロリズムの嵐が吹き荒れた。街頭で隊列を組んでいた同志たちは出口のない迷宮をさまよい、疲弊し、挫折し、次々と転向していった。
オレはといえば新宿のJAZZ喫茶や映画館に入り浸り、自分のオトシマエをつけられずに悶々としていた。

だが高校のサッカー部の仲間たちはグランドに姿を現さないオレを疎んだりしなかった。UTなどはよく夜中にバイクで部屋に遊びにきて、足がすっかり遠のいた部活の様子を話してくれた。彼らは順当に強くなり国学院久我山や帝京とも互角の勝負をするようになり、高校3年の選手権の予選では都のベスト32まで駒を進めた。彼らの活躍は嬉しかった。だがオレはプレイヤーとしての夢はもう描くことは出来なかったが、後悔はしていなかった。人生はフットボールだけではない、そのときはそう自分に言い聞かせていたのだ。

日本のサッカーは低迷を極めていた。アジアのローカル大会で惨敗し、遊びでやってくる南米や欧州のチームに子供のようにあしらわれてしまう。72年、メキシコW杯で神の域に達していたペレを擁するサントスFCが来日し、その神様の妙技に目を瞠った。日本は世界から確実に置いていかれてしまったのだ。アマチュアリズムで硬直化した発想でレベルが上るわけが無い。日本リーグは閑古鳥が鳴いていた。
夢を見させてくれ!とわめいたところで先は全く見えてこなかった。

一年の浪人生活でバイトばっかりしていたが、オレはなんとか青山学院大学に滑り込んだ。
心にぽっかりと空いた空洞はなかなか埋まらない。
誰か夢を見させてくれ!
そんなある日高等部出身の友人KBに誘われ高等部サッカー部OBチームの試合に参加し、久々にスパイクを履く機会があった。
身体はなまり、煙草で肺は毒されすぐ息が上がる。それでも子供の頃、兄と原っぱでボールを蹴ったあの日の楽しい記憶が戻ってきた。
選手生活はフェードアウトしたが、フットボールにはこういう楽しみ方もあるんだと認識した。
あらためてフットボールの病に身をゆだねるのも悪くない。

74年のワールドカップ西ドイツ大会、東京12チャンネルは決勝戦を中継する英断を下し、オレはテレビにかじりついた。日本のサッカーは最低だったが世界は確実に新しい時代に突入していた。それまでペレのブラジル、ベッケンバウアーの西ドイツの陰に隠れていたオランダが彗星のように表舞台に現れた。リヌス・ミケルスの指揮するトータルフットボールは天才ヨハン・クライフによって完成され、決勝戦では不屈の西ドイツの前に惜敗したものの、サッカー界に衝撃を与え、世界を魅了した。
“美しく勝利せよ”
なんと甘美なスローガンだろう。フットボールは勝利を目指すだけでなく美しくあらなければならないのだ。
自由奔放なオレンジの軍団の闘いはフットボールをひとつ上の極みに押し上げたのだ。

77年、神様だったペレが引退した。皇帝ベッケンバウアーとともに世界中で引退興行が行われ、東京でもサヨナラゲームが行われた。対戦する日本代表は二宮寛が前年から指揮を執って抜本的に若返りを図っていた。金田喜念19歳、加藤久20歳、西野朗21歳、前田秀樹23歳。この若い選手たちがフィールドから去っていく神様を相手に溌剌としたプレーで挑んだ。
まるでサッカーはこれで終わりではなく明日からも続くんだ、と言わんばかりの“若さ”は気持ちが良かった。かすかな希望を見たような気がした。
それはサッカーだけでなく、自分自身の再生への一歩だったのかもしれない。


<以下続く>

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