2009年1月24日土曜日

イタリア!夢の舞台へ

東京五輪後の日本サッカーの強化を目的に組織された日本サッカーリーグも四半世紀の年月を経たが、メキシコ五輪後の長い低迷でさすがにアマチュアリズムの限界は各方面で討議され始め、プロ契約を前提とした読売や日産に続いて各チームでライセンス・プロの選手たちがチームの中心になり始めた。1988年、またもやアジアの壁を越えられなかったソウル五輪予選の無残な敗退を受け、森健皃リーグ総務主事が「日本リーグ活性化委員会」を結成。ようやく日本のトップリーグのプロ化が実施レベルで検討されるようになった。
オレが中坊の頃『サッカーマガジン』にプロ化の提言を投書してから、すでに20年以上経っていた。いったい何をやっていたんだコイツラは。
やっと重い腰を上げ動き出した森総務主事のあとを継いだのは東京五輪でアルゼンチンを葬ったダイビングヘッドのヒーロー・川淵三郎だった。彼は具体的に1992年を目標としてプロリーグを結成する提案を「第2時活性化委員会」でぶち上げた。

夢を見させてくれ! 

おそらくは川淵にオレの叫びが届いたのだろう、彼も日本サッカーリーグで国立を満員にしようと旗を降り始めている。きっとそうに決まっている。
歴史は音を立てて動いていた。ソ連はペレストロイカの前で雪が解け始め、中国は民主化の嵐が吹き荒れている。日本サッカー協会も“ペレストライカー”のポスターまで作って旧いアマチュアリズムの呪縛を解きほどこうともがきだしたかのようだった
しかし機運は高まるものの現実はまだまだ厳しい。それを思い知らされたのが1990年開催のイタリアワールドカップのアジア予選だった。

ソウル五輪予選敗退後、代表は石井義信監督が辞任しメキシコ五輪のGK横山謙三がそのあとを継いだ。ユニフォームも白、青から赤に変えてムードは一新された。横山は思いつきでドイツ流のウイングバックを導入し佐々木正尚、浅岡朝泰、平川弘といった選手たちがスピードを買われて起用されていたものの付け焼刃的な慣れないシステムに悪戦苦闘した。
1989年5月香港とのアウェー戦は、天安門事件直前、李鵬首相の戒厳令布告に対する抗議で騒然とした中で行われた。そんな雰囲気に呑まれたのか試合は見るべきところなく0-0で引き分けてしまう。1週間後、ジャカルタでの対インドネシア・アウェー戦でもゴールを割れずに0-0。
さらに翌月の国立での強豪・北朝鮮との試合でもいきなり先制されてしまい早くも予選突破に黄信号がともり暗雲が立ち込めだした。ところが圧倒的に責められながらもカウンターから水沼貴史が同点ゴールを奪うと、なんと信じられないことに相手のオウンゴールが飛び出しラッキーにも勝利が転がり込んできた。

翌週、続いてインドネシアをホームに迎えたが、どういう理由だったかわからないが会場は国立ではなく西が丘が使用されることになっていた。いまでは高校サッカーくらいしかビッグゲームが行われることがない西が丘である。当時その時期のサッカー場は西が丘に限らず雨でぬかるんでピッチの芝生は剥げ落ち泥だらけの状態だった。前日の練習に訪れたインドネシアの選手たちは絶句しここは競馬場じゃないのか?と目を疑った。10万収容の見事な芝生のセナヤンスタジアムでプレーする彼らにはアジアで最も発展している東京で、こんなお粗末な競技場で重要なワールドカップ予選のゲームをさせられるとは夢にも思っていなかったのだろう。このホームの利点(?)に乗じた日本は、足をとられて調子を出せない相手から大量5点を奪って勝利した。インドネシアの監督は試合後の会見で“そもそもこんなスタジアムでワールドカップの予選をやる資格があるのか!”と怒りは収まらなかった。格下と目される国からの精一杯の皮肉に対して日本は何もいえなかった。お粗末なインフラ、まだまだ人気のないマイナースポーツ。これが日本サッカーの現実の姿なのだ。

ただこの勝利でサポーター(こんな言葉はまだなかったが)は沸き立った。次の神戸で行われる香港に勝てば1次予選突破は見えてくる。
夢を見させてくれ!
ところが肝心の香港戦は期待を裏切りまたもやスコアレスドロー。北朝鮮との最終戦で勝利が絶対条件になってしまった。そしてこの難敵にあっさり0-2で完敗し、あえなくイタリアへの道は1次予選で閉ざされてしまったのである。

泥だらけでの西が丘での試合開催。テレビ中継すらないアウェイ戦。1次予選すら突破できない代表。こんなことで1992年を具体的な目標にしたとはいえプロ化なんて出来るのだろうか?前途の多難さを考えるとため息しか出てこない。


日本の将来を慮りながらも、世界のフットボールはあまりにも輝かしく、ワールドカップはビッグビジネスとなり巨大化する一方だった。
日本のサッカーには冷淡なメディアであったが1990年のイタリアワールドカップについては、ソウル五輪に続きNHKの衛星放送普及の切り札として全試合の完全生中継が行われることとなった。
オレは衛星放送情報誌『テレビコスモス』の編集長として、ワールドカップの特集号と銘打って誌面を1冊丸ごとサッカー一色に作り上げた。いつになく徹夜仕事もいとわずに働いたのは、当然、本大会の行われるイタリアへ休暇をとって観戦に行くつもりだったからである。
メキシコワールドカップを直前でキャンセルした後悔は二度とするまいぞ。とにかくどんなことがあってもワールドカップの現場に立つんだ!歴史の目撃者になるんだ!しかも世界最高峰のリーグを誇り世界最高の舞台イタリアでの開催である。

夢を見させてくれ!

オレはJTBのワールドカップのツアーパンフレットから準々決勝から決勝までの6月28日から7月10日まで、11泊13日のコースを選び、当時まだまだ高かった旅行代金に大枚をはたいた。
2週間の有給休暇もただでさえ忙しい出版社のサラリーマン的にはなかなか申請しにくいものがあったが、直属の上司にまなじりを決して休暇届を提出した、止めるものなら止めてみろという意気込みだったが上司は拍子抜けするほどあっさり判を押してくれ“取材してくれば半分出張扱いにしてもいいよ”とまで言ってくれたのであった。

映画『GOAL!』で1965年のイングランド大会を初めて知ってから25年、ついに念願のワールドカップの決勝戦を目撃するのだ。JTBから旅行の日程表が届き、オレはようやく夢が現実となる実感を噛みしめていた。

<以下続く>

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